2012年11月25日日曜日

ルノーRS01/ジャン・ピエール・ジャブイーユ/1977/カルツォ


1980年代に訪れるターボ時代のさきがけ、ルノーターボF1の第1戦モデルです。

1997年のオートスポーツ2-15号では「デビューは6月19日のスウェーデン・グランプリの予定」、4-1号では「デビュー戦は夏(おそらくフランス・グランプリ)ということになっている」と書かれていたデビュー戦ですが、実際にはフランスGPの翌戦である第10戦イギリスGPにずれ込みます。 

ルノーとしては、地元でデビューさせたかったはずですよね。なのに、それをイギリスGPにずらしたのは、地元で走らせたら問題になるほど性能が悪かったからでしょうか。それとも余計なプレッシャーを受けたくないから、あえて1戦遅らせたのか。

この件に関しては、オートテクニック1977年9月号「イギリスGPにみるニューカマー・ルノーターボと主要F・1マシンを総チェック!!」という記事で触れられていました。

オートテクニック、この号は表紙もRS01ですね。


「テストランは,まずフランス国内で始められ,ディジョンサーキットを1分12秒8の好タイムをマークした.ちなみに7月3日のフランスGPでは,マリオ・アンドレッティのロータス78DFVが1分12秒21でポールポジションであり,トップマシンに近いポテンシャルを示したのである.」

1分12秒8というタイムはフランスGPの予選結果に当てはめてみると、4位。調子いいですよね。では、なせフランスGPでデビューしなかったのか。

「タイムは出たが,エンジントラブルが続いたからというのが実状のようである.その主なものがピストンに穴があいてしまうという類のもので,熱によってピストンが溶けてしまうわけだ.」

「ターボエンジンは,ピストン,およびエンジン自体の冷却,これにともなうインテークエアの冷却が重要になってくるのである.」

このエンジンの過熱の問題は1977年のルノーについてまわります。「TURBO CARS1977-83」を読むとこんな一文がありました。

「ターボチャージャーが発生する熱によるオーバーヒートに悩まされ、デビューイヤーの殆どのレースで白煙を噴き上げてリタイアする姿を曝したRS01は、その小柄で愛らしいボディ・フィルムのせいもあって、イギリスのプレスから“イエロー・ティーポッド”という有りがたくないニックネームを頂戴した。」

そんな過程を経てデビューしたイギリスGPの予選は21位でした。オートスポーツ9-15号より。


「ニュー・ルノー・ターボのJ.P.ジャブイーユは、ターボ・チャージャーのトラブルで木曜日はひどいタイムだったが、金曜日になってやっと調子を回復、26人中21位で予選を通過した。」

そして本戦を迎えます。

「フランスのホープ、J.P.ジャブイーユのニュー・ルノーはやはり、長つづきしなかった。12周め、ターボ・システムの故障でビット・イン。その後4周ほど走ったが、ターボの調子が悪くリタイアとなった。」

記念すべき第1戦なのに、なんだかあっさりしていますね。ここはオートテクニックに期待して77年9月号を開いてみます。

「注目のルノー・ターボもデビューしたが,まだまだ調整段階,プラクティスでもピットインを繰り返し,懸命にターボの調整に務めたが,プラクティスで21番目の成績.11列目からスタートしたレースでも,わずか16周目にターボ自体が壊れて初出場をリタイアで終えていた.」

ちなみにオートテクニックのマシン解説記事には、スポーツカーノーズではなく、ウイングノーズでデビューした理由も載っていました。

「フロントダウンフォースの調整が,スポーツカーノーズよりウイングノーズの方が簡単だからであろう.これは他のF1マシンと,まったく共通の考え方だ.」

ダウンフォースが重要になるにつれ、スポーツカーノーズは消えていくんですね。ただ、RS01に関しては次に参戦したオランダGPではスポーツカーノーズで参戦し、しかも一時は6位を走るのですから、まあ、よくわかりません。

何はともあれ、後に一世を風靡するターボF1の歴史はこうやって幕を開けたわけですね。

2012年11月13日火曜日

マルティニMk23/ルネ・アルヌー/1978年/Racing Models


Racing Modelsのサイトに、マルティニMk23のベルギーGPモデルもありました。

発表時のマシンと比べると、ボディの各部に施された変更点がチームの苦闘ぶりを物語っていますねえ……と思ったら、ベルギーGPは第6戦。デビュー戦だったモナコGPが第5戦ですから、デビューレースで予選落ちしたので、慌てていろいろ手を加えたのでしょうか。


以前の記事でも書きましたが、マルティニが参戦したのは、モナコGP(予選落ち)、ベルギーGP(9位)、フランスGP(14位)、ドイツGP(予選落ち)、オーストリアGP(9位)と5戦だけです。こうしてみると最もいい成績を収めたマシンをモデル化したとも言えるんでしょうが、それよりなにより、そんなマシンをよくモデル化したなと。いや、これは誉めているんですよ(笑)。


オートスポーツ1978年10-15号のオーストリアGP解説記事に。こんな文章がありました。

「そして最後尾の26位にはマルティニMK23のルネ・アルヌーがすべり込んだ。『べつに悪いところはないが、ただスピードが出ない……』という。」

悪いところはないけれどスピードが出ない(笑)。それじゃあ、手の施しようがないですねえ。でもまあ、デザイナーが「多少重いマシンになっていても、むしろ頑丈なマシンということで初挑戦には好都合」なんて呑気なことをいっているのだから、スピードが出ないのも当然という気もしますが。

ちなみにオートスポーツ1978年7-15号を読むと、ベルギーGPのレースレポートのまとめに、少しだけマルティニの話が出てきます。

「9位にはマルティニMk23のルネ・アルヌー。彼もこれまででベストの成績だ。」

2012年11月11日日曜日

タイレル009/D.ピローニ/1979/スパーク



タイレル009は1979年に投入されたマシンです。『F1全史』は「ロータス79をコピーしたかのような新型009(モーリス・フィリップ設計)は改良型ロータス79より良い出来だが、個性なし」とばっさり(笑)。

それでもエースドライバーのジャン・ピエール・ジャリエと、2ndドライバーのディディエ・ピローニは2回ずつ表彰台にのぼっています(すべて3位)。ピローニが最初に表彰台にのぼったのが、今回モデル化された第6戦ベルギーGPでした。

ベルギーGPのレースレポートが載ったオートスポーツ1979年7-15号を見てみます。

ピローニの予選結果は12位。11位はチームメイトのジャリエでした。

「6列目はタイレル009のジャン・ピエール・ジャリエとディディエ・ピローニ。比較的順調に予選を進め、ほとんどトラブル・フリーだった。」

実は名門タイレル、ここまでメイン・スポンサーがありませんでした。予選でブレーキ・フェードが発生した点について、ジャリエはこんなふうに答えています。

「『新しいスポンサーがつかなくても、ブレーキの交換くらいはやる余裕があるよ』とジャリエはジョークを飛ばす。このベルギー・グランプリ前に決まったメイン・スポンサー“キャンディ”(洗濯機や食器洗機を作る家電メーカー)のレタリングがボディに書込まれている。」

「Candy」というロゴが描かれたのはこのGPから。つまり、このレース以前の009をモデル化した場合は、ただ「Tyrell」とだけ書かれた青いマシンになるわけです。それはそれでほしい気もします。

レースはフロントローを独占したジャック・ラフィーとパトリック・デパイユのリジェJS11に、アラン・ジョーンズのウイリアムズFW07が挑み、首位を奪います。しかしマシントラブルでジョーンズはリタイア。2台のリジェは3位のシェクター(フェラーリ312T4)に10秒以上の差をつけます。

シェクターに迫るのが、ウルフWR8のジェームズ・ハントと、2台のタイレル。41周目、ピローニがハントをぬいた直後、ハントがジャリエを巻き込んでスピン。ハントはリタイア、ジャリエも順位を落とします。

首位を走っていたデパイユがリタイヤした後、シェクターがラフィーとの差を詰め、54周目に逆転。この時点でピローニは3位を走っています。ですが、後続の猛追を受けることになりました。

「観客をわかせたのは、このシェクターだけでなく、ビルヌーブの追い上げのほうがさらに歓声は大きかった。ビルヌーブはパトレーゼ──マイペースでジワジワと4番手に浮上して4番手に浮上していた──を抜き4番手に、そして3番手のピローニとの差もグングンちぢめ、残り8周というところでフェラーリがタイレルの前に出た。2番手のラフィーとは20秒もの差があったが、これも1周2秒の割でつめていく。」

ただ、ここでフェラーリのエンジンに異変が生じます。

「シケインのところでビルヌーブはフェラーリのフラット12エンジンの息つきを感じた。しかし、ストレートに出るとエンジンは再び吠えつづける。ここでビルヌーブは落ち着いて車をゆすらせ走らせ、タンク内のガソリンを1滴たりとも残さずピックアップしようとしたのだ。」

ビルヌーブは2位をあきらめ、3位を確保する作戦に変更します。ですが……。

現実は、レースは、勝負は無情であった。ビルヌーブのフェラーリは、ついにガソリンを飲みつくし、グランドスタンドから見える最終コーナー手前でストップしたのである。ビルヌーブは車を降り、なおもフェラーリを押し進めようとしたが、時すでに遅かった。」

コースでストップをしたビルヌーブを横目に、ピローニはゴール。F1で初めて表彰台にのぼります。

翌1980年、ピローニはリジェに移籍し初優勝を遂げると、1981年にはビルヌーブがエースドライバーを務めるフェラーリへ移ります。その後の2人の関係は、ご存じの通り。チーム内で2人は対立し、その関係がビルヌーブの事故死の遠因になったと言われています。

2012年11月4日日曜日

フェラーリ312T5/ジョディ・シェクター/1980/ポリスティル


マテルのフェラーリ312T5を買ったとき、自分のコレクションで312T5は初めてだと思っていたのですが、棚を眺めていたら、すでに1台持っていることに気づきました。

てっきり312T4だと思っていたポリスティルのフェラーリをよく見ると、ナンバーがチャンピオンナンバーの「1」になっています。T4の前年、1978年のチャンピオンチームは、16戦中8勝をあげたロータスですから、これはT4ではありません。フェラーリは1979年にT4でコンストラクターズチャンピオンになっていますので、これは、1980年にジョディ・シェクターが乗ったT5、ということになります。

いやいや、ちょっと待て。

この時代はシーズン序盤、ヨーロッパに上陸するまでは前年のマシンで戦うというチームが多かったのは事実です。この年のフェラーリも序盤戦はT4で参戦していたという可能性があります。ならチャンピオンナンバーのT4がある可能性がある。

そう考えて、『F1全史 1976ー1980』を開いてみました。アルゼンチンGPは第1戦です。リザルト欄を見ると、第1戦からフェラーリは312T5で臨んでいました。

勢いがついてオートスポーツ1980年3-15号も本棚から引っ張り出してみました。以下はアルゼンチンGPのレース・レポート。

「フェラーリは、ニューT5を2台走らせたが、このT5は基本的にT4で、シャーシのコックピット前後をテーパー状に半分近く削り、“ウィング”部分を広げようという意図のシャーシである」

完全なニューマシンかどうかはさておき、第1戦からT5で参戦していたことは間違いないようです。

それにしても「テーパー状」ってなんだろう?

ネットで検索すると「テーパー状」というのは「円錐状に加工した状態」とありました。人生、知らないこと、多いなあ。

マテルのT4とT5を並べてみました。左がT4、右がT5です。


「シャーシのコックピット前後をテーパー状に半分近く削」ったこと、わかりますか?

これがオートスポーツ1980年3-15号です。表紙はアルゼンチンGPを制したアラン・ジョーンズのウィリアムズFW07。1980年はウィリアムズの年でした。

2012年10月7日日曜日

最後のスポーツカーノーズ?(2)


オートスポーツ1977年2-1号を読んでいたら、「最後のスポーツカーノーズマシン」らしい、マーチ771に関する記述を見つけました。

「マーチの4輪駆動/6輪F-1 ロビン・ハードの蒸気機関車“240”」という記事です。
後輪を直列に並べたマーチ6輪車に関するレポートの前半部に触れられていました。

まず1977年に登場する761Bについて解説した後、ニューマシンへと話題は移ります。

「77年の南アフリカ・グランプリには、761Bにつづいて、この点を改めた新しいシャシーがデビューするはずだ。」

「この点」とは「761では、レースが進行し、燃料タンクがしだいに空になっていくと、重量配分が好ましくない方向に変化し、これがタイヤ・トラブルの原因となっていた」という問題です。

「これは752(1975年のF-2モデル)のモノコック・タブをベースとしたもので、もちろんこれも4輪である。形式名は771。」

「もちろん4輪である」と強調しているのは、この記事がマーチの6輪車について紹介した記事だからですね。

「テスト結果しだいでシーズン後半にも771がこの6輪レイアウトを採用する可能性がある」

つまり、マーチは1977年シーズン、まず前年改良型の761Bで始め、早いうちに771へスイッチし、後半戦になったら6輪で勝負をかけようという計画だったみたいですね。

南アフリカ・グランプリは3月5日。ただし実際登場したオランダGPは8月28日までずれ込みます。6輪がデビューしなかったのはわかりますが、771のデビューが半年遅れたのには、どんな理由があったのでしょうか。

2-1号は表紙もマーチ240でした。


2012年10月3日水曜日

フェラーリ312T2 6WHEELS/ー/1977/マテル


マテルの「フェラーリ312T2 6WHEELS」です。1977年にテスト走行はしたものの、実戦に投入されなかったテストカーです。

1976年に登場した6輪マシン、タイレルP34は、第5戦のベルギーGPに登場して4位に入賞すると、第6戦で2、3位を占め、第7戦では一気に1位、2位を独占します。今振り返っても衝撃的なデビューですね。

当然、他のチームも6輪への取り組みを始めます。ただタイレルが小型化したのはフロントタイヤ。後輪のサイズがそのままなので、実は投影面積はそんなに小さくならなかったそうです。「なら後輪のほうを4輪にして小さくしたほうが投影面積は小さくなるんじゃね?」と考えたのが、マーチとフェラーリでした。

とはいえコンセプトは違います。マーチは後輪2つを後方に追加する方式。一方、フェラーリは横に足すという方式を取りました。

タイレル、マーチ、フェラーリの6輪車はみんなミニカーとして出ていますので、並べてみます。



シンプルに投影面積を減らすなら、マーチのやり方でしょうが、タイヤを回すシステムが2倍になります。空気抵抗を減らすためだけにそれだけのことをする意味はあるのかという疑問も出てきます。その点、従来のリア・タイヤを二つ横につなげたフェラーリのほうがシンプルです。まあ、その分、タイヤ2個が横にはみ出しているわけで投影面積も増えるんじゃないかという疑問も出てきます。

どちらもその疑問が解消できなかったのが、実戦に投入されなかった理由でしょうね。

オートスポーツ1977年5-15号に、グラビア2ページに加え、「ついに登場したダブル・タイヤのフェラーリ」という1.5ページの記事が載っていました。



「フェラーリよ、お前もか──。このグロテスクなF-1マシンをさらに醜くする権利がお前にはあるのか。時とともに音楽が変わり、ファッションが移ろっていくのと同じで、フォーミュラ・カーの形も時の流れにさからうことはできないようである。」

という“文学的”な文章で始まる記事は、さらにゴッホやシャガールはわかるけれどキリコやダリの絵は「どうもいただけない」と芸術論に進んでいきます。いいなあ、こういうノリ。嫌いじゃありません。

「しかし、いずれ時が過ぎ、次の時代になればこれらの絵も美しい、これこそ現代の美であると大勢の人達が認めるようになると思う。」

「一時代前のあのスリムな、いわゆる“葉巻型”のフォーミュラ・マシンから、現代の6輪車へと流れは大きく変わってきつつあることは事実である。」

「そしてタイレル。今回のフェラーリの6輪車は言ってみればシュール・レアリズムの絵画のように 衆人の理解の範囲から離れてはいるものの、未来を目指した新しいフォーミュラのフォルムではないだろうか。」

残念ながら未来はそちらへは行かなかったわけですが(笑)。いつの時代でも未来予測は難しいです。

オート・スポーツ1977年5-15号の表紙は、77年型のポルシェ935でした。

こちらは表4です。


何の広告か一瞬わからないかもしれません、これはスバルの広告です。世界中の一流メーカーはみんな水平対向エンジンを採用しているよ、という内容。載っているのはスバル以外では、アルファロメオ、ワーゲン、シトロエン、ランチャ、フェラーリ、ポルシェ。この中で今も水平対向エンジンを搭載しているのはポルシェとスバルだけですね。未来はわからないものです。

2012年9月22日土曜日

最後のスポーツカーノーズ?


マーチ761Bについて調べていたとき、『F1全史1976-1980』の中に「マシンは前年の改良型、761Bを使用。シェクターのみ、後半戦は771を使用」という文章を見つけました。巻末のリザルトのページを見ると、第13戦のオランダGPから第16戦のカナダGPまでシェクターはマーチ771に乗っているようです。どんなマシンなんだろう。

オートスポーツ77年11-15号のイタリアGPレースレポートにちょっとした記述がありました。

「9列めはワークス・マーチ711のイアン・シェクターとATSペンスケPC4のJ.P.ジャリエ。イアンは20位以内でクォリファイされたのでうれしそうだ。グランプリ・レースの舞台がヨーロッパに移ってから、彼が20位以内で予選を通過したのはこれが2度目なのだ。彼のマーチ771は新型で、ホイールベースが長く、燃料タンクが中央部に、そしてラジエターのレイアウトにも変更が加えられているほか、リア・サスペンションのジオメトリーが調節式になるなど、かずかずの改良が行なわれている。」

写真も2枚載っていますが、2枚とも細部のアップ。これは外観の変化がないということですかね。

ネットに写真がありました

「ラジエターのレイアウトにも変更が加えられている」というのは、スポーツカーノーズの中にラジエターを持ってきたということみたいですね。

こっちにもいろいろありますね。

何度か書いていますが、スポーツカーノーズのF1マシンは1977年を最後に姿を消します。型番が違うということは、厳密に言うと、8月28日のオランダGPに参戦したマーチ771が最後に登場したスポーツカーノーズマシン、ということになるんですかね。個人的にはそこが気になるところで(笑)。

2012年9月17日月曜日

ウルフWR1/ケケ・ロズベルグ/1978/ミニチャンプス



1978年に参戦したケケ・ロズベルグのモデルです。

ケケはこの年、第3戦の南アフリカGPでセオドールからF1デビュー。セオドールから4戦出走し、第8戦のスウェーデンGPからはATSで3戦、そして第11戦の西ドイツGPからの4戦はウルフで参戦します。さらに最後の2戦はATSに戻っています。

というわけで、このミニカーは、西ドイツGP(10位)、オーストリアGP(11位)、オランダGP(リタイア)、イタリアGP(リタイア)のどれかのようです。

とりあえず最上位の西ドイツGPの話が載ったオートスポーツ1978年10-1号を見てみます。ケケは予選19位。「ケケはウルフWR1で予選通過」と本文中の見出しにもなっていました。

「ケケ・ロズベルクがついに予選を通過した。マシンはごく最近にテディ・イップが買い入れたウルフWR1である。乗り慣れないマシンでこの成績は上じょうといいたい。少なくとも20番手のブランビラよりはいい出来だったのだから……。」

ケケに対する好感度の高さがうかがわれる文章です。レースの結果に関してもそれは共通しています。

「ロズベルグが2周めのピットインにもかかわらず、10位とよく健闘してくれた。」

好意的なのは、当時から彼の才能が評価されていたからですかね。


2012年9月9日日曜日

1976年のロリス・ケッセル


アポロンのロリス・ケッセル君、1976年のレース結果を見ていたら、名前を見つけました。ブラバムBT44で参戦していたんですね。

第4戦スペインGP(予選落ち)、第5戦ベルギーGP(12位)、第7戦スウェーデンGP(リタイア)、第8戦フランスGP(予選落ち)、第11戦オーストリアGP(規定周回数不足で順位なし)。以上5戦です。

ベルギーGPは70周のレースで63周完走。これがいちばんいい成績ですね。

2012年9月2日日曜日

アポロン/L・ケッセル/1977/Racing Models



1976年から1980年のF1ミニカーに限定して収集しているので、この年代のF1マシンは一通り把握しているつもりでした。Racing Modelsのサイトでこのマシンを見るまでは。

 Apollon Cosworth 1977 Loris Kessel

Apollonというチームで、ドライバーはLoris Kesselということなんでしょうが、まったく知りません。

1977年と言えば、ロータス78が登場したいわゆるウイングカー元年です。日本GPも富士スピードウェイで開催されています。実際、レースも見に行きました。この年はマイナーチームまで把握していたつもりだったのですが。

製品の解説には以下のように記されています。

The ill fated Swiss Apollon Cosworth F1 (Williams FW03 based) as raced in 1977 by Loris Kessel.

スイスのチームが、ウイリアムズの昔のマシンをカスタマイズしたマシンみたいですね。

「Apollon Cosworth 1977」でGoogle検索してみると、一番上にRacing Modelsのページがでてきます。画像検索に切り替えると、Loris Kesselのまとめサイトが見つかりました。そこに何枚かApollonらしき写真が載っています。

USのWikipediaに「Apollon (Formula One)」という項目がありました。

RAMのドライバーだったLoris Kesselが、自分をウイリアムズに売り込んだんだけど、採用されず、そのかわりに古いマシンを売ってもらった。でスイスのThe Swiss Jolly Clubに話を持ちかけて、チームを作った、という経緯のようです。改良したのは元フェラーリのデザイナーGiacomo Caliri。コパスカーとかATSをデザインした人です。なんとなく路線が見えてきました(笑)

参戦したのはイタリアGPだけみたいです。「F1全史」のリザルトページを見てみると、たしかに予選不通過の中に「L・ケッセル」という名前があります。マシン名は「ウィリアムズFW03・フォード」。これのこと、みたいですね。

念のために当時の雑誌も見てみます。「オートスポーツ」1977年11-15号です。


イタリアGPの予選結果を見ると、確かにケッセルの名前がありました。予選最下位です。1位はハントのマクラーレンM26で1分38秒08、最下位で予選を通過したのがマーチ761のP・ニーブで1分40秒52。ケッセルのタイムは1分46秒68ですから、これはつらい。ちなみにここでも表記はウイリアムズFW03。


記事本文で予選落ちのマシンたちに触れている段落でも、ケッセルの名前は出てきません。

「コパスカーF5のE.フィッティパルディ、エンサインN177のB.ヘントン、マーチ761のA.リベイロらは予選に落ち、決勝レースへの進出はならなかった。」

ケッセルは「リベイロら」の「ら」扱いになっています。

本棚を見たら1977年の「オートテクニック」もあったので、11月号を開いてみましたが、やはり予選結果以外に記載はありませんでした。「ら」すらなしです(笑)。

確かに当時のF1はプライベーターが型落ちのマシンを購入して参戦するということがよくありましたが、それにしてもFW03は1974〜75年のマシンですからねえ。ちょっと古いような気がします。

あ、でも75年ということはタイレル007と同じか。高橋国光もそれで1977年の日本GPに挑戦していますから、それほど異例ではなかったのかな。元のモデルをモディファイして、トップチームに一泡吹かそうと考えた。そう考えると急に愛おしくなってきました(笑)。

あと悩ましいのは、このマシンのチーム名ですね。高橋国光のマシンを「タイレル」に分類している以上、これも「ウイリアムズ」にすべきなのかとも悩みましたが、せっかくですので、アポロンにすることにします。

ネットで実車らしい写真を見つけたので、アップしておきます。


白黒なのが残念だなあ。

2012年8月29日水曜日

タイレル007/O・シュトウパッヒャー/1976年/スパーク



1976年のカナダGPに、シュトウパッヒャーというドライバーが参戦したときのモデルです。カナダGPということはF1 in Japanの2戦前ですね。結果は予選落ち。星野一義のチームがスポーツカーノーズに変更したのは正解だったということでしょうか。

米国のWikipediaによると、シュトウパッヒャーはイタリア、カナダ、アメリカというF1 in Japan前3戦に参戦(笑)しています(Otto Stuppacher)。イタリアがDNS(「did not start」)、カナダとアメリカがDNQ(「did not qualify」)。イタリアGPは予選通過したけど、何かのトラブルで本戦には出走できなかったんですかね。『F1全史 1976-1980』を見るとイタリアGPも「DNQ」になっていますが。

007は、76年の星野一義モデルと77年の高橋国光モデルを持っています。このモデルはオリジナルに近い007が欲しくて購入しました。日本GPモデルは、いろいろカスタマイズされていますからね。これならオリジナルにボディーカラーも似てるし(笑)。

実はワークスも、76年の第4戦のスペインGPまで、タイレル007を使っていたりします。最近の70年代F1ブームに便乗して、どこかが76年の007もモデル化してくれませんかね。スペインGPならシート後方のエアインダクションも低くなっているはずですし。まあ、「76年のタイレルと言ったらP34」というのもわかるんですけど。

2012年8月27日月曜日

スパークのアルファロメオ179を予約

スパークが秋口に発売するというアルファロメオ179をどうしようかで悩んでいました。買うつもりですが、ブランビラとジャコメリの2種類が出るんですよね。

ジャコメリは最も優勝に近づいたUSイーストGPモデル

ブランビラはオランダGPモデル

USイーストGPでのジャコメリの健闘は、ポリスティルのアルファロメオ179のところで書いています。ブランビラのオランダGPの成績は予選22位、本戦はリタイヤ。

ポリスティルはゼッケン22なので(サイドは23だったりしますが)、ゼッケン23のジャコメリを買うほうが正解だなと考えそちらを注文しました。送料込みで6478円でした。ダブって買わないようにここに書いておきます(笑)。

2012年8月19日日曜日

マーチ761B/イアン・シェクター/1977/エーダイ


エーダイのマーチ761Bです。特にドライバーの指定はありませんが、ナンバーとカラーリングからすると、これはイアン・シェクターのマシンですね。

オートスポーツ77年3-15号の表紙(の上半分)がシェクターのマーチ761Bです。


アルゼンチンGPのレースレポートに、簡単なマシン紹介がありました。

「マーチは昨年タイプの古いマシンを持ち込んだが、新顔のふたりのドライバーのために目新しいペイントが施され、新しいスポンサー・ネームがつけられている。」

「マーチ761Bの変更点は、フロント・サスペンションとスタビライザーのレイアウト(ロッキードの新しいツイン・キャリバー・ブレーキを装備するため)である。」

「また、リア・スタビライザーはロータス式のアジャスタブル・システムを採用している。」


ブレーキに関しては、オートスポーツ77年2-15号にこんな記述がありました。マーチ6輪の紹介記事の前半部分です。

「マーチ761は、76年シーズンの終盤にはくわめてコンペティティブなマシンに成長していたが、ふたつの大きな弱点をかかえていた。ひとつは、レース中に左のフロント・タイヤが過熱しやすく、ほかのマシンと比較して、ブレーキの効きが落ちるということだった。」

「77年1月のブラジル・グランプリには、残念ながらマーチの新しい6輪車は出場しないが、その代わり、改造型の761Bが出場するという。このモデルには新しいツイン・キャリバーのブレーキ系、そしてドライバーズ・シートからアジャストできるバリアブル・アンチ・ロールバーが装着されるはずだ。これは、レース序盤の、まだ燃料タンクが満タン状態のとき、左のフロント・タイヤにかかるロードをゆるめて、そのオーバーヒートを防ぐための新しい機構である。このほか、細部に多くの改良が加えられ、全体としてかなりの重量軽減が実現している。」


ただ前年と違い、761Bは「コンペティティブなマシンに成長」はしてくれませんでした。オートスポーツ1977年10-1号のドイツGPのレースレポートに、761Bについてイアン・シェクターのこんな発言が載っています。

「マーチではI.シェクターが1番速く、18位のタイム。プラクティスにはロビン・ハードも姿を見せたが、ヨーロッパでのF-1レースに彼がやってきたのは初めてのことだ。『彼のおかげでセッティングもうまくいった』とイアンは語っており、走るごとにタイムを向上させて、最終セッションでは1分56秒35を出した。しかし、ハードはレース前に帰国してしまい、土曜日の夜に彼が指示したセッティングはめちゃめちゃだった。そのためイアンは『こんなひどい車には来年からもうのらない……』とさえいう始末。」

マーチはこの年かぎりでF1から撤退するので、シェクターの決心は守られることになります。ただシェクター自身も78年はF1のドライバーズシートを獲得できなかったのですが。



2012年8月13日月曜日

ロン・ハワードの新作「ラッシュ」は1976年のラウダvsハントがテーマ

ロン・ハワードの新作映画「ラッシュ」は、1976年のF1シーズンが舞台なんですね。ラウダvsハントを描くそうです。

ハントは「ソー」のクリス・へムズワース。ラウダはダニエル・ブリュール。

ハント役のへムズワース、雰囲気出ていますね。


ただでさえドラマティックな実話なのに加えて、脚本は「フロスト/ニクソン」のピーター・モーガン。これは楽しみ。この写真を見るかぎり、マシンもヘルメットもきちんと再現されています。まあ、当然か。


1976年のF1 in Japanの様子も再現されるのでしょうか。

2012年8月10日金曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/ミニチャンプス


ミニチャンプスのウルフWR1は、以前、アルゼンチンGPモデルを紹介したことがありますが、こちらは日本GPモデル。アルゼンチンGPは1977年の初戦(本戦は1月9日)、日本GPは最終戦(10月23日)になります。

2台を並べてはっきりわかる違いはエンジン上のカウルですかね。日本GPにはカウルがついていて、そこに田宮模型のデカールが貼られています。


予選は6位。オートテクニック1977年12月号のレースポートより。

「富士は初めてのウルフWRは貴重なセッティング時間をエンジンとミッションのトラブルで損失,ようやく1分13秒15としたのは内容を考えれば上々の出来であった.」

ちなみにポールポジションはアンドレッティの1分12秒23です。

シェクターはスタートに成功、ハントに続いて一気に2位を獲得します。その後も2位争いを続けます。

「しかし43周目にシェクターは耐えきれない操縦性に業を煮やし,ピットでタイヤとリアウイング調整.ために大きく遅れるがその後俊足ぶりを見せ“1分14秒30”の最速ラップを71周目に樹立する.」

結果は10位。とはいえ初挑戦のこの年、ドライバーズランキングで2位に入ります。コンストラクターズランキング4位。ドライバー1人のチームとしてはかなり優秀な成績ですよね。

2012年8月5日日曜日

スパークのシャドウDN8、パトレーゼモデルが届きました

予約していたスパークの「シャドウDN8」が届きました。

ドライバーはパトレーゼで、1977年の日本GPモデル。送料込みで5290円でした。


並べてみると、以前買ったオーストリアGPのアラン・ジョーンズ・モデルと外観はほとんど違いはありませんね。

今、予約中のロングビーチGPモデルだと、シーズンはじめなので、外観もけっこう違うと思うのですが。

2012年7月31日火曜日

ルノーRS01/ルネ・アルヌー/1979/カルツォ


1979年のアルゼンチンGPモデル(第1戦/1月21日本戦)です。ドライバーはルネ・アルヌー。

1978年に念願のルマン制覇を果たしたルノーは、いよいよF1に本腰を入れはじめます。チームも2カー体制に移行。その第1戦ですね。

ドライバーのアルヌーは前年にマルティニからF1にデビューしたもののチームは途中撤退。終盤戦をサーティーズから参加し、そしてルノーへ。なんだか順調なステップアップだなあ(笑)。

ただルノーで挑んだ初戦はなかなか厳しいものとなりました。

アルゼンチンGP予選は最下位の24位。オートスポーツ1979年3-15号を読むと、実は予選落ちしていたみたいです。

「アルヌーのほうは、3基ものターボ・エンジンをブローアップさせ、予選の走行はわずか14周というありさまで、クォリファイに失敗。『いまは1台だけに望みを託すことになってしまったが、この1台にもそれほど期待はかけられない。この暑さがつづけば、トラブルなしでレースを終えることはむずかしいだろう』とルノー・チームのマネージャー、ジャン・サージュは、強烈な路面の照り返しを避けながら話した。ミシュランのサービス・マンが計った路面温度は43℃を記録し、日陰でさえ37℃という猛暑なのだ。」

オーバーヒートに悩んでいたターボエンジンにとって、このコンディションは厳しかったようです。

予選を通過できなかったアルヌーですが、当日になって、意外な幸運に恵まれます。
本戦のウォーミングアップ走行での話です。

「R.パトレーゼのアローズとN.ピケットのブラバムが高速の右コーナーで接触。『あれは私が悪かった。ブレーキがまったく効かなくなったんだ』とパトレーゼは自分の非を認めた。アローズのフロント・サスペンション・ピックアップがめり込むというダメージで、パトレーゼはレースをあきらめることになった。」

「パトレーゼの欠場により、第1リザーブのスタックに出走のチャンスが回ってきたが、前日のクラッシュでATSが走れない状態のため、けっきょくルノーのアルヌーにチャンスが訪れた。」


2台繰り上がっての本戦出場とはかなりの幸運です。

ただ、本戦は「トラブルなしでレースを終えることはむずかしいだろう」というマネージャーの“予言”を裏付ける結果に終わります。

「R.アルヌー(ルノー)とN.ラウダ(ブラバム)が6周を終えたところで揃ってピット・イン。アルヌーのルノーは煙をもうもうと上げてのピット・インだが、ピストン・リング折損によるオイル・スモークで、ピットにストップしたままリタイア。」

予選は満足に走れず、本戦も6周で終了。アルヌーにとって前シーズンの苦闘を彷彿とさせる、1978年のスタートでした。

とはいえ、この年、アルヌーは実力を見せ始めます。表彰台にも3度あがり、ドライバーズランキングは8位。これはエースドライバーのジャブイーユ(13位)より上だったりします。

2012年7月29日日曜日

ムック「TURBO CARS」を買う


ジョーホンダの写真集ですね。基本的にコレクション対象は1980年までなので、目当てはルノーのみです。

ぱらぱら見ていて、すぐに衝撃の新事実を発見。

1977年のオートスポーツにもオートテクニックにも載っていなかったカナダGPのルノーRS01の写真が載っていたのですが、カナダGPにはスポーツカーノーズでチャレンジしていたんですね。

以前、エーダイのRS01のところで「このタイミングでスポーツカーノーズに戻すというのも考えづらいので、ここは暫定的にオランダGPモデルということにしてしまいましょう(笑)」なんて書いたのですが、その予測は間違っていました。というわけで、訂正文を追加しました。


2012年7月28日土曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/YAXON


前にミニチャンプスとエーダイのモデルを紹介したウルフWR1ですが、今度は、YAXONのモデルです。

ミニチャンプスの項を書くときに本棚から引っ張り出したオートテクニック1977年3月号のレースレポートに、WR1とは関係がないんだけど、ちょっと気になる一文がありました。


「2年前の前回GP以降,アルゼンチンは軍事政権下にあり,けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではないのだが,ラテンアメリカの人々は政治とプロスポーツを両立させ2年ぶりのF1GPレースをやってのけた.ためにいつものGPシーンには見られぬ,軽機関銃と鉄かぶとの“カーキ色”が目立っていた.」

「“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ですか。どういう時代なんだろう。

オートスポーツ1977年3-15号の巻頭グラビアを開くと、“カーキ色”が目立つ写真が載っていました。シェクターとレースクイーン(?)の後ろに兵士がずらり並んでいます。


レースレポートに、オートテクニック以上に詳しい記述がありました。見出しもずばり「戒厳令下のグランプリ・レース」。ちょっと長いですが、レースを取り巻く様子がわかるので引用します。

「まず、“舞台”の説明からはじめよう。これからして、他のいかなるグランプリとも異なっているからである。“はなし”はブエノスアイレス空港から始まった。ここは2年前と変らず、依然として仮建築のようなお粗末な建物だが、これはすぐに慣れてしまう。アルゼンチンでは、こんなことはごくあたり前のことなのだ。

 すぐに慣れるわけにはいかないのが、いたるところに見かける兵隊だ。それも、数百人という数である。どこへ行っても、軍隊を見かけることができる。彼らは完全武装し、軍服は破れてきたなく、不気味な弾帯を肩からぶら下げている。彼らをちらっと見ると,彼らもじっとわれわれを注視する。すこし離れたところにはトラックが停車していて、数10人の兵隊が武器をもって乗り込んでいる。さらにそのうしろのほうには警察のパトロール・カーが2台。それぞれ中には機関銃をもった4人の警官が同じように緊張した顔つきで構えている。すぐにでも行動に移れるように待機しているのだ。これが全部われわれのためだから驚く。

 われわれが2台のバスに分乗して空港を離れるとパトカーはサイレンを鳴らし、1台はバスの前方を走り、残りの1台は後方から護衛し、他の車両はすべて通行禁止となる。こうして、われわれは厳重に護衛されて市の中心部まで25kmのドライブをしたのだ。ロンドンからブエノスアイレスまで21時間のフライトではじゅうぶんな睡眠がとれなかったが、このバスのなかでも眠るどころではない。前と後ろにサイレンの音が鳴り響き、まるで“護送”されるような雰囲気であり、まったくグランプリ・レースとは異質の雰囲気といわねばならない。

 これほど厳重な護衛が実施されたのは、反政府ゲリラ活動に対する警戒からである。彼らはひんぱんに事件をひきおこしており、グランプリの機会に騒乱が発生する可能性があるし、そうなればわれわれは標的になるのだという。

 ホテルの中ではそれほど大げさなことはなく、大した問題はなかったが、そこを一歩出てサーキットへ行くと、またもや大変な事態である。2500人もの警官が警備に当たっていて、いたるところでバッグの中味を調べ、通行許可バッジを確認し、身分証明書の提示を求める。はじめのうちは、われわれもおもしろがっていたが、しだいにめんどうになり、最後にはひどい苦痛になってきた。その検査の時、私は大事なフィルムを1本没収されてしまったのだ。アルゼンチン軍隊の立派な任務遂行のありさまを写したのが彼らの気に入らなかったらしい。まったく常識では考えられない。

 私は、一体何のためにはるばるアルゼンチンまでやってきたのだろうか、と考え込んでしまった。」


「エビータ」の夫、ファン・ペロン大統領が死んだのが1974年7月。その後、ペロンの2人目の奥さんイザベルが世界初の女性大統領になるわけですが、1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラがクーデターを起こし、政権を握ります。オートテクニックには「2年前の前回GP」、オートスポーツにも「ここは2年前と変らず」という記述があるように、前年のアルゼンチンGPは中止されているのですが、なるほど、それどころではなかったのですね。

ちなみにビデラは81年まで大統領を続けますが、1977年はまさに「汚い戦争」が始まった直後にあたります。

「汚い戦争(スペイン語: Guerra Sucia 英語: Dirty War)とは、1976年から1983年にかけてアルゼンチンのホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla)将軍率いる軍事政権によってアルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為を指す言葉である。」
(ウィキペディアより)

「アルゼンチンを知るための54章」(明石書店)には、ビデラ政権の最優先課題は「治安回復と対ゲリラ戦であった」と書かれています。

「徹底的に左派系の武装勢力と戦い、掃討作戦を実施した。ゲリラは一人ひとりが一つの細胞組織として行動していたため、ゲリラと断定した者だけではなく何らかの形で関係していた者も取り締まりの対象となり、結果的に一万人以上がいまだに行方不明になっている(人権団体は三万人以上と推定している)。」

こういう文章を読むと、当時のアルゼンチンが本当に「けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ことが、よくわかります。

「瞳は静かに」という映画は、まさに1977年のアルゼンチンが舞台。当時の恐ろしい状況が物静かに語られます。

2012年7月26日木曜日

スパークのルノーRE20を注文

スパークから発売された「ルノー RE20 #15 オーストリアGP 1980 優勝 J-P.Jabouille」、今さらですが、ネットで注文してしまいました。

すでにカルツォでは持っているので今回はいいかと思っていたのですが、発売されるとやっぱりほしくなりました(笑)。基本的にルノー好きなもので。

注文は受け付けられたのですが、いつ送られてくるかという連絡はなし。注文してから立ち寄ったショップでは普通に売ってました。うーん、いつ届くんだろう。

2012年7月24日火曜日

マーチ761/ハンス・スタック/1976/ミニチャンプス


1976年の第10戦、西ドイツGPモデルです。76年の西ドイツGPといえば、ラウダがひん死の重傷を負ったレースとして知られています(本戦は8月1日)。

オートスポーツ1976年10-1号を見てみます。予選は何位くらいなんだろうと思って調べていて、意外な発見。西ドイツGPでマーチ761、予選4位なんですね。てっきり予選落ちとのボーダーラインかと思って下の方を探していたので、ちょっと驚きました。

1位がマクラーレンM23のハント、2位がフェラーリ312T2のラウダ、3位がタイレルP34のデバイユ。そしてデパイユの横には「今シーズンF-1で実に久しぶりの活発な動きを見せたH.スタック。タイムは7分09秒1で、前3者に遜色ない」。すばらしい。やっぱりこの年のマーチ761はそれなりの戦闘力があったんですね。

ただ本戦のレポートには名前は出てきません。「F1全史」で確認してみると、1周目でリタイアしていました(笑)。

ストックにとって予選4位というのは、この年の最高位。第1戦ブラジルGPと第6戦モナコGPでは本戦で4位に入っていますので、予選4位から一気に表彰台、と行きたかったところですが、残念ながらそうはいかなかったようです。

2012年7月22日日曜日

リジェJS11/ジャック・ラフィー/1979/RBA


RBAのリジェJS11。ナンバー26なので、ジャック・ラフィーのモデルです。

1976年のF1参戦以来、ラフィーの1台体制を続けてきたリジェですが、この年から2台体制へ移行。新たにチームに加わったパトリック・デバイユが「25」と、ラフィーより若いナンバーをつけています。ただレースレポートをぱらぱら見ている限りは、デパイユがエースドライバーというわけではないみたいですね。ラフィーはずっと26番をつけていたので、そこにこだわったということなのでしょうか。

2台体制に移行しただけでなく、このシーズン、リジェは前年まで使い続けていたマトラV12に見切りをつけ、エンジンをDFVに替えて、ロータス79ライクのJS11を投入します。そしてデビュー戦のアルゼンチンGP(1月21日)でいきなりそのパフォーマンスを見せつけました。

「2台のリジェが他のチームより1周で1〜2秒速いのだ。これまで、アルゼンチンのサーキットにこれほどの“ニュー・カー”が並んだことはない。」

オートスポーツ1979年3-15号のレースレポートからも、その驚きが伝わってきますね。

「けっきょくリジェが2台でフロント・ロウを占めることとなった。リジェのこの鮮烈なパフォーマンスは、ちょうど1年前のロータスをほうふつとさせるものがある。」

レースでは予選2位のデパイユが首位に立ち、ポールポジションのラフィーはスタートを失敗して4位へ。しかし徐々に順位を上げ、11周にはデパイユを抜いて首位に立ちます。そしてそのままゴールへ。本人にとっても「楽勝」だったようです。

「優勝したラフィーは『信じられないくらい簡単に勝った。ラップをあと1秒ちぢめて走ることもできたほどだったんだ。問題があったとすれば、集中力を最後まで持続しながら凡ミスをやらないように走りつづけなければならなかったことくらいかな』と感想を述べ、これから寒い雪のフランスへ帰るという。2週間後にブラジル・グランプリを控えているのにである。そのわけを「カミさんと約束してきたんだ。もし優勝すれば、娘に会いに帰るってね」と話すラフィーは、サンデー・ドライブを終えた男が見せるようにリラックスしていた。」

リジェJS11は続くブラジルGP(2月4日本戦)でもフロント・ロウを独占。一時帰宅で鋭気を養った(?)ラフィーは2連勝を飾り、前戦では4位だったデパイユも2位と表彰台をゲットします。

3-15号の表紙はまさにその2台が走る姿です。ただデバイユが前を走っているのがご愛敬。


ただリジェのひとり勝ちはここで終了。翌戦からシェクター&ビルヌーブのフェラーリ312T4が調子を上げはじめ、シーズン後半になるといよいよチーム・ウイリアムズが頭角を現します。

2012年7月18日水曜日

ミニカーマガジンの6月号が品切れでした


久しぶりに日暮里に仕事で立ち寄ったので、帰りにイケダをのぞきました。ここに来る度に、ミニチャンプスのバイクが欲しくなるんですが、なんとか自制しています。

ミニカーマガジンをもらおうとしたら、6月号だけ抜けています。まじめな読者じゃないくせに、ないとわかると、特集はなんだったのだろうと気になったりもします。

7月号の編集後記を読むとこんな記述が……。

「◇先月号の表紙で、特集のタイトルが誤って「黒箱トミカの緊急車『懐古』録」となっておりました。正しくは「青箱トミカ〜」です。」

なるほど、トミカ、しかも特殊車両の特集とは、人気高そうですね。自分には関係ないテーマなのでほっと一安心。

ただ出版の仕事をしていたりするので、誤植は他人事ではありません。「大きな文字ほど誤植に気づかない」というのは、この業界の“常識”だったりします。気をつけよう。

2012年7月15日日曜日

ルノーA500/ー/1976/スパーク


スパークから出ている「Renault Alpine A500 test car 1976」です。「Alpine A500 1976/F1 Renault 1st Prototype laboratoire」というモデルを持っていますが、こちらは「test car」。実際にテスト走行をしたモデル、ということのようです。

オートスポーツ1976年9-1号にこのマシンの記事が載っています。




「5月13日、レジェ・ルノーは、彼らの活動に正式に1.5リッター・ターボ付きF-1エンジンの開発を加えることを発表した。“ルノー、F-1エンジンのテストを開始”と題されたプレス・レリーズの内容は、以下のようなものである──」


これからルノーがどうターボに取り組んでいるかという話が始まるのですが、ここにA500の話が載っています。プレスリリース(記事の中の言葉を借りるならプレス・レリーズ)の一文です。

「タイプA500と呼ばれるシャシーは、あらゆる種類のエンジン(インディ、F-1、F-2)搭載が可能なようにデザインされており、“ローリング・ラボラトリー”と異名をとる。トラック・テストもすでに行われており、7月までにはより一層のスピードアップがはかられる予定だ。そしてその結果で、ルノーとエルフはこの新しいF-1エンジンの市販を行なうかどうかを決定する。」
「ルノー・ゴルディーニのエンジニアは、このA500シャシーはあくまで“ラボラトリー(実験室)”であり、実戦には登場しないことを強調している。」

この段階ではあくまでもエンジンサプライヤーとしての参戦を考えていたみたいですね。記事もこのエンジンが「1977年のF-1グランプリに登場することは、ほぼ間違いない」としています。「どのチームに、どれだけの期間エンジンを供給するかについては、6月の末に発表することになっている」。誌面ではマルティニ、リジェ、そしてタイレルと予想していますが、実際は、シャシーも自ら作り、参戦することになるわけです。


2012年7月11日水曜日

フェラーリ312T5/ジル・ビルヌーブ/1980/マテル


「フェラーリ 312T5 #2 アルゼンチンGP 1980」。312T2、T3、T4と購入してきた、マテルのフェラーリ&ビルヌーブモデルです。

1979年はドライバーズランキングで2位になったビルヌーブ。速さもエースのジョディ・シェクターをしのぎ、いよいよチャンピオンかと期待されて臨んだ1980年ですが、この年のフェラーリは絶不調。シェクターはシーズン途中で引退。ビルヌーブも一度も表彰台に上がれませんでした。

そしてフェラーリはシーズン半ばで312T5をあきらめ、V6の126Cを投入します。つまりこの312T5は、70年代を席巻したフェラーリ水平対向12気筒エンジン時代の最後のマシンというわけですね。

アルゼンチンGPはこの年の第1戦(本戦は1月13日)。オートスポーツ1980年3-15号を見ると、タイヤに悩まされたようです。

「フェラーリとルノーは、このサーキットではいずれもミシュラン・タイヤのハンドリングに悩まされた。クォリファイ・タイヤを使ってさえも悪いのだ。グッドイヤーのほうはわずか3種類のタイヤしか持ち込まず、クォリファイ・タイヤでさえもレース本番に使うことすらできるという。
『改修された路面はどこまでも滑りっぱなしでね。1日めよりはましになったけど、まだよくない』とビルヌーブ。彼は最終セッションで8番目のタイムを出し、金曜日からグリッドをひとつ繰上げた。」


そしてレース本番。

「ビルヌーブ(フェラーリ312T5)もいいスタートを切ったものの第1コーナーで大きく滑って後方に転落した。しかし、後方集団に彼がそれほど長く埋もれたままでいるわけがない。」

「20周が終わった。レースはまだ予断を許さない。ラフィーは4秒のマージンを保ってトップを走り続ける。2番手はピケット。が、ピケットの背後にはビルヌーブが迫り、さらにジョーンズが激しく追い上げて差を詰めてきている。」

30周でラフィーのエンジンがブローアップ。

「リジェが脱落したので2番手はビルヌーブとなり、彼は激しくジョーンズを追いかけ、ミスを誘発させようとプレッシャーをかけつづける。しかし、この作戦はフェラーリに裏目と出た。フェラーリが壊れてしまうのだ。」


というわけで結果は36周でリタイヤ。でも第1戦のレポートを読む限り、このシーズンの惨状は予想できませんね。





2012年7月7日土曜日

マクラーレンM23/ジル・ビルヌーブ/1977/ミニチャンプス


ミニチャンプスのマクラーレンM23。コックピットまわりが取り外しできます。

ビルヌーブのF1デビュー戦モデルですね。1977年の第10戦イギリスGP。本戦は7月16日に行われました。

オートスポーツ1977年9-15号のレースレポートを見ると、見出しに「新人ビルヌーブが“ベテラン”を食う!」と書かれていました。

「5列めはハントのスペア・カーのマクラーレンM23にのった新人、G.ビルヌーブがはいって大センセーションをまきおこした。このプラクティスの好成績で、彼のもとにはさらにふたつのF-1レースから出場の招請がきたほどだ。ビルヌーブのM23はレギュラー・カーとはまったくちがったセットになっているのだが、『彼のフィード・バックはすばらしい。プラクティスのあとで。ギヤボックスにわずかの振動があるというので分解してしらべたところ、ベアリングがひどく摩耗していた……』とチームのメカニックはビルヌーブの落ち着いたドライブに驚いている。」

並の新人ではないことを強調した書き方ですね。

ただ本戦は予選ほどうまくはいかなかったようです。

「10周めにはビルヌーブのマクラーレンM23もトラブルに見舞われた。彼はチームメイトのJ.マスと7位争いを演じていたのだが、突然、水温計が上がりはじめたのでおどろいてピットに飛び込む。よく調べてみるとなんとメーターの故障とわかり、すぐ再スタートをしたがこれで不運にも2周をロスしてしまった。これがなければ、デビュー戦で入賞という快挙を達成したところだった(彼はけっきょく、トップから2周おくれの11位でレースをおえたが、名誉ある“マン・オブ・ザ・ミーティング”賞を受けた)」

フィードバック能力に優れた新人でも、さすがにメーターの故障には気づかなかったわけですね。まあ当然と言えば当然か。

ちなみにエースドライバーのハントは、マクラーレンM26でポールポジションを獲得。レースでも優勝しています。