2012年7月28日土曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/YAXON


前にミニチャンプスとエーダイのモデルを紹介したウルフWR1ですが、今度は、YAXONのモデルです。

ミニチャンプスの項を書くときに本棚から引っ張り出したオートテクニック1977年3月号のレースレポートに、WR1とは関係がないんだけど、ちょっと気になる一文がありました。


「2年前の前回GP以降,アルゼンチンは軍事政権下にあり,けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではないのだが,ラテンアメリカの人々は政治とプロスポーツを両立させ2年ぶりのF1GPレースをやってのけた.ためにいつものGPシーンには見られぬ,軽機関銃と鉄かぶとの“カーキ色”が目立っていた.」

「“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ですか。どういう時代なんだろう。

オートスポーツ1977年3-15号の巻頭グラビアを開くと、“カーキ色”が目立つ写真が載っていました。シェクターとレースクイーン(?)の後ろに兵士がずらり並んでいます。


レースレポートに、オートテクニック以上に詳しい記述がありました。見出しもずばり「戒厳令下のグランプリ・レース」。ちょっと長いですが、レースを取り巻く様子がわかるので引用します。

「まず、“舞台”の説明からはじめよう。これからして、他のいかなるグランプリとも異なっているからである。“はなし”はブエノスアイレス空港から始まった。ここは2年前と変らず、依然として仮建築のようなお粗末な建物だが、これはすぐに慣れてしまう。アルゼンチンでは、こんなことはごくあたり前のことなのだ。

 すぐに慣れるわけにはいかないのが、いたるところに見かける兵隊だ。それも、数百人という数である。どこへ行っても、軍隊を見かけることができる。彼らは完全武装し、軍服は破れてきたなく、不気味な弾帯を肩からぶら下げている。彼らをちらっと見ると,彼らもじっとわれわれを注視する。すこし離れたところにはトラックが停車していて、数10人の兵隊が武器をもって乗り込んでいる。さらにそのうしろのほうには警察のパトロール・カーが2台。それぞれ中には機関銃をもった4人の警官が同じように緊張した顔つきで構えている。すぐにでも行動に移れるように待機しているのだ。これが全部われわれのためだから驚く。

 われわれが2台のバスに分乗して空港を離れるとパトカーはサイレンを鳴らし、1台はバスの前方を走り、残りの1台は後方から護衛し、他の車両はすべて通行禁止となる。こうして、われわれは厳重に護衛されて市の中心部まで25kmのドライブをしたのだ。ロンドンからブエノスアイレスまで21時間のフライトではじゅうぶんな睡眠がとれなかったが、このバスのなかでも眠るどころではない。前と後ろにサイレンの音が鳴り響き、まるで“護送”されるような雰囲気であり、まったくグランプリ・レースとは異質の雰囲気といわねばならない。

 これほど厳重な護衛が実施されたのは、反政府ゲリラ活動に対する警戒からである。彼らはひんぱんに事件をひきおこしており、グランプリの機会に騒乱が発生する可能性があるし、そうなればわれわれは標的になるのだという。

 ホテルの中ではそれほど大げさなことはなく、大した問題はなかったが、そこを一歩出てサーキットへ行くと、またもや大変な事態である。2500人もの警官が警備に当たっていて、いたるところでバッグの中味を調べ、通行許可バッジを確認し、身分証明書の提示を求める。はじめのうちは、われわれもおもしろがっていたが、しだいにめんどうになり、最後にはひどい苦痛になってきた。その検査の時、私は大事なフィルムを1本没収されてしまったのだ。アルゼンチン軍隊の立派な任務遂行のありさまを写したのが彼らの気に入らなかったらしい。まったく常識では考えられない。

 私は、一体何のためにはるばるアルゼンチンまでやってきたのだろうか、と考え込んでしまった。」


「エビータ」の夫、ファン・ペロン大統領が死んだのが1974年7月。その後、ペロンの2人目の奥さんイザベルが世界初の女性大統領になるわけですが、1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラがクーデターを起こし、政権を握ります。オートテクニックには「2年前の前回GP」、オートスポーツにも「ここは2年前と変らず」という記述があるように、前年のアルゼンチンGPは中止されているのですが、なるほど、それどころではなかったのですね。

ちなみにビデラは81年まで大統領を続けますが、1977年はまさに「汚い戦争」が始まった直後にあたります。

「汚い戦争(スペイン語: Guerra Sucia 英語: Dirty War)とは、1976年から1983年にかけてアルゼンチンのホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla)将軍率いる軍事政権によってアルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為を指す言葉である。」
(ウィキペディアより)

「アルゼンチンを知るための54章」(明石書店)には、ビデラ政権の最優先課題は「治安回復と対ゲリラ戦であった」と書かれています。

「徹底的に左派系の武装勢力と戦い、掃討作戦を実施した。ゲリラは一人ひとりが一つの細胞組織として行動していたため、ゲリラと断定した者だけではなく何らかの形で関係していた者も取り締まりの対象となり、結果的に一万人以上がいまだに行方不明になっている(人権団体は三万人以上と推定している)。」

こういう文章を読むと、当時のアルゼンチンが本当に「けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ことが、よくわかります。

「瞳は静かに」という映画は、まさに1977年のアルゼンチンが舞台。当時の恐ろしい状況が物静かに語られます。