ラベル 1977年 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 1977年 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年9月7日土曜日

シャドウDN8/R.ゾルジ/1977年/スパーク



シャドウDN8の初期が欲しかったので購入しました。送料込みで6428円。

スパークのDN8は、1976年モデルを1台、1977年モデルを2台持っています。今回買ったのは1977年のロングビーチGPモデルです。

ちなみにこの年のロングビーチGP、オートスポーツ1977年6-1号を見ると「アメリカ・グランプリ・ウエスト」という表記になっています。

今回モデル化されたのはゾルジのマシン。予選20位はでした。記述は「11列めにはビンダーとゾルジ。」だけです(笑)。本戦は27周でリタイア。記事では次のように触れられていました。

「その間には、ゾルジのシャドウがやはりギヤボックスを痛めて戦列を去っていた。」

「その間」というのはジョン・ワトソンのブラバムBT45がギヤボックスを痛め、コース上で修理をしたのだけど、マシンに携帯していた工具以外を使ったのがばれて、厳重注意を受けていた「その間」ということらしいです。車に積んだ工具を使いコース上でギヤボックスを修理することが現実的にあり得た、というのは、やっぱりのんびりした時代ですよねえ。

とりあえずオーストリアGPで優勝したジョーンズのDN8と並べてみます。

ロングビーチGPが4月3日の第4戦、オーストリアGPが8月14日の第12戦。この4か月の間にずいぶんとスリムになっています。

2013年9月5日木曜日

シャドウDN8/リカルド・パトレーゼ/スパーク/1977年


1977年の第17戦、日本GPモデルです。

第6戦のモナコGPでデビューしたリカルド・パトレーゼは、このレースで6位に入。この年、唯一の得点を挙げます。

オートテクニック77年12月号で、さらりと触れられていました。

「新人パトレーゼは後半のタイヤトラブルをだまし,初入賞をやってのけた.」

チームメイトのアラン・ジョーンズの前を走る写真も掲載されていました。キャプションはこんな感じです。

「パトレーゼが兄キ分のジョーンズを従える.結局ジョーンズに先を越されるが,6位に入りF1初ポイント」

ジョーンズは4位に入賞しています。

日本GPが行われたのは10月23日。パトレーゼは2週間後の11月6日に行われた「JAF鈴鹿グランプリ」にもシェブロンB42で参戦。日本GPの勢いを駆って見事、優勝をとげます。

ちなみにこのレースにはケケ・ロズベルグ、ディディエ・ピローニも参戦しています。ラルトRT1にのって参戦しているダニー・サリバンは、85年のインディーチャンピオンのダニー・サリバンなのかな。

いちおうこの年のオーストリアGPで優勝したジョーンズのマシンと並べてみますね。


2012年11月25日日曜日

ルノーRS01/ジャン・ピエール・ジャブイーユ/1977/カルツォ


1980年代に訪れるターボ時代のさきがけ、ルノーターボF1の第1戦モデルです。

1997年のオートスポーツ2-15号では「デビューは6月19日のスウェーデン・グランプリの予定」、4-1号では「デビュー戦は夏(おそらくフランス・グランプリ)ということになっている」と書かれていたデビュー戦ですが、実際にはフランスGPの翌戦である第10戦イギリスGPにずれ込みます。 

ルノーとしては、地元でデビューさせたかったはずですよね。なのに、それをイギリスGPにずらしたのは、地元で走らせたら問題になるほど性能が悪かったからでしょうか。それとも余計なプレッシャーを受けたくないから、あえて1戦遅らせたのか。

この件に関しては、オートテクニック1977年9月号「イギリスGPにみるニューカマー・ルノーターボと主要F・1マシンを総チェック!!」という記事で触れられていました。

オートテクニック、この号は表紙もRS01ですね。


「テストランは,まずフランス国内で始められ,ディジョンサーキットを1分12秒8の好タイムをマークした.ちなみに7月3日のフランスGPでは,マリオ・アンドレッティのロータス78DFVが1分12秒21でポールポジションであり,トップマシンに近いポテンシャルを示したのである.」

1分12秒8というタイムはフランスGPの予選結果に当てはめてみると、4位。調子いいですよね。では、なせフランスGPでデビューしなかったのか。

「タイムは出たが,エンジントラブルが続いたからというのが実状のようである.その主なものがピストンに穴があいてしまうという類のもので,熱によってピストンが溶けてしまうわけだ.」

「ターボエンジンは,ピストン,およびエンジン自体の冷却,これにともなうインテークエアの冷却が重要になってくるのである.」

このエンジンの過熱の問題は1977年のルノーについてまわります。「TURBO CARS1977-83」を読むとこんな一文がありました。

「ターボチャージャーが発生する熱によるオーバーヒートに悩まされ、デビューイヤーの殆どのレースで白煙を噴き上げてリタイアする姿を曝したRS01は、その小柄で愛らしいボディ・フィルムのせいもあって、イギリスのプレスから“イエロー・ティーポッド”という有りがたくないニックネームを頂戴した。」

そんな過程を経てデビューしたイギリスGPの予選は21位でした。オートスポーツ9-15号より。


「ニュー・ルノー・ターボのJ.P.ジャブイーユは、ターボ・チャージャーのトラブルで木曜日はひどいタイムだったが、金曜日になってやっと調子を回復、26人中21位で予選を通過した。」

そして本戦を迎えます。

「フランスのホープ、J.P.ジャブイーユのニュー・ルノーはやはり、長つづきしなかった。12周め、ターボ・システムの故障でビット・イン。その後4周ほど走ったが、ターボの調子が悪くリタイアとなった。」

記念すべき第1戦なのに、なんだかあっさりしていますね。ここはオートテクニックに期待して77年9月号を開いてみます。

「注目のルノー・ターボもデビューしたが,まだまだ調整段階,プラクティスでもピットインを繰り返し,懸命にターボの調整に務めたが,プラクティスで21番目の成績.11列目からスタートしたレースでも,わずか16周目にターボ自体が壊れて初出場をリタイアで終えていた.」

ちなみにオートテクニックのマシン解説記事には、スポーツカーノーズではなく、ウイングノーズでデビューした理由も載っていました。

「フロントダウンフォースの調整が,スポーツカーノーズよりウイングノーズの方が簡単だからであろう.これは他のF1マシンと,まったく共通の考え方だ.」

ダウンフォースが重要になるにつれ、スポーツカーノーズは消えていくんですね。ただ、RS01に関しては次に参戦したオランダGPではスポーツカーノーズで参戦し、しかも一時は6位を走るのですから、まあ、よくわかりません。

何はともあれ、後に一世を風靡するターボF1の歴史はこうやって幕を開けたわけですね。

2012年10月3日水曜日

フェラーリ312T2 6WHEELS/ー/1977/マテル


マテルの「フェラーリ312T2 6WHEELS」です。1977年にテスト走行はしたものの、実戦に投入されなかったテストカーです。

1976年に登場した6輪マシン、タイレルP34は、第5戦のベルギーGPに登場して4位に入賞すると、第6戦で2、3位を占め、第7戦では一気に1位、2位を独占します。今振り返っても衝撃的なデビューですね。

当然、他のチームも6輪への取り組みを始めます。ただタイレルが小型化したのはフロントタイヤ。後輪のサイズがそのままなので、実は投影面積はそんなに小さくならなかったそうです。「なら後輪のほうを4輪にして小さくしたほうが投影面積は小さくなるんじゃね?」と考えたのが、マーチとフェラーリでした。

とはいえコンセプトは違います。マーチは後輪2つを後方に追加する方式。一方、フェラーリは横に足すという方式を取りました。

タイレル、マーチ、フェラーリの6輪車はみんなミニカーとして出ていますので、並べてみます。



シンプルに投影面積を減らすなら、マーチのやり方でしょうが、タイヤを回すシステムが2倍になります。空気抵抗を減らすためだけにそれだけのことをする意味はあるのかという疑問も出てきます。その点、従来のリア・タイヤを二つ横につなげたフェラーリのほうがシンプルです。まあ、その分、タイヤ2個が横にはみ出しているわけで投影面積も増えるんじゃないかという疑問も出てきます。

どちらもその疑問が解消できなかったのが、実戦に投入されなかった理由でしょうね。

オートスポーツ1977年5-15号に、グラビア2ページに加え、「ついに登場したダブル・タイヤのフェラーリ」という1.5ページの記事が載っていました。



「フェラーリよ、お前もか──。このグロテスクなF-1マシンをさらに醜くする権利がお前にはあるのか。時とともに音楽が変わり、ファッションが移ろっていくのと同じで、フォーミュラ・カーの形も時の流れにさからうことはできないようである。」

という“文学的”な文章で始まる記事は、さらにゴッホやシャガールはわかるけれどキリコやダリの絵は「どうもいただけない」と芸術論に進んでいきます。いいなあ、こういうノリ。嫌いじゃありません。

「しかし、いずれ時が過ぎ、次の時代になればこれらの絵も美しい、これこそ現代の美であると大勢の人達が認めるようになると思う。」

「一時代前のあのスリムな、いわゆる“葉巻型”のフォーミュラ・マシンから、現代の6輪車へと流れは大きく変わってきつつあることは事実である。」

「そしてタイレル。今回のフェラーリの6輪車は言ってみればシュール・レアリズムの絵画のように 衆人の理解の範囲から離れてはいるものの、未来を目指した新しいフォーミュラのフォルムではないだろうか。」

残念ながら未来はそちらへは行かなかったわけですが(笑)。いつの時代でも未来予測は難しいです。

オート・スポーツ1977年5-15号の表紙は、77年型のポルシェ935でした。

こちらは表4です。


何の広告か一瞬わからないかもしれません、これはスバルの広告です。世界中の一流メーカーはみんな水平対向エンジンを採用しているよ、という内容。載っているのはスバル以外では、アルファロメオ、ワーゲン、シトロエン、ランチャ、フェラーリ、ポルシェ。この中で今も水平対向エンジンを搭載しているのはポルシェとスバルだけですね。未来はわからないものです。

2012年9月2日日曜日

アポロン/L・ケッセル/1977/Racing Models



1976年から1980年のF1ミニカーに限定して収集しているので、この年代のF1マシンは一通り把握しているつもりでした。Racing Modelsのサイトでこのマシンを見るまでは。

 Apollon Cosworth 1977 Loris Kessel

Apollonというチームで、ドライバーはLoris Kesselということなんでしょうが、まったく知りません。

1977年と言えば、ロータス78が登場したいわゆるウイングカー元年です。日本GPも富士スピードウェイで開催されています。実際、レースも見に行きました。この年はマイナーチームまで把握していたつもりだったのですが。

製品の解説には以下のように記されています。

The ill fated Swiss Apollon Cosworth F1 (Williams FW03 based) as raced in 1977 by Loris Kessel.

スイスのチームが、ウイリアムズの昔のマシンをカスタマイズしたマシンみたいですね。

「Apollon Cosworth 1977」でGoogle検索してみると、一番上にRacing Modelsのページがでてきます。画像検索に切り替えると、Loris Kesselのまとめサイトが見つかりました。そこに何枚かApollonらしき写真が載っています。

USのWikipediaに「Apollon (Formula One)」という項目がありました。

RAMのドライバーだったLoris Kesselが、自分をウイリアムズに売り込んだんだけど、採用されず、そのかわりに古いマシンを売ってもらった。でスイスのThe Swiss Jolly Clubに話を持ちかけて、チームを作った、という経緯のようです。改良したのは元フェラーリのデザイナーGiacomo Caliri。コパスカーとかATSをデザインした人です。なんとなく路線が見えてきました(笑)

参戦したのはイタリアGPだけみたいです。「F1全史」のリザルトページを見てみると、たしかに予選不通過の中に「L・ケッセル」という名前があります。マシン名は「ウィリアムズFW03・フォード」。これのこと、みたいですね。

念のために当時の雑誌も見てみます。「オートスポーツ」1977年11-15号です。


イタリアGPの予選結果を見ると、確かにケッセルの名前がありました。予選最下位です。1位はハントのマクラーレンM26で1分38秒08、最下位で予選を通過したのがマーチ761のP・ニーブで1分40秒52。ケッセルのタイムは1分46秒68ですから、これはつらい。ちなみにここでも表記はウイリアムズFW03。


記事本文で予選落ちのマシンたちに触れている段落でも、ケッセルの名前は出てきません。

「コパスカーF5のE.フィッティパルディ、エンサインN177のB.ヘントン、マーチ761のA.リベイロらは予選に落ち、決勝レースへの進出はならなかった。」

ケッセルは「リベイロら」の「ら」扱いになっています。

本棚を見たら1977年の「オートテクニック」もあったので、11月号を開いてみましたが、やはり予選結果以外に記載はありませんでした。「ら」すらなしです(笑)。

確かに当時のF1はプライベーターが型落ちのマシンを購入して参戦するということがよくありましたが、それにしてもFW03は1974〜75年のマシンですからねえ。ちょっと古いような気がします。

あ、でも75年ということはタイレル007と同じか。高橋国光もそれで1977年の日本GPに挑戦していますから、それほど異例ではなかったのかな。元のモデルをモディファイして、トップチームに一泡吹かそうと考えた。そう考えると急に愛おしくなってきました(笑)。

あと悩ましいのは、このマシンのチーム名ですね。高橋国光のマシンを「タイレル」に分類している以上、これも「ウイリアムズ」にすべきなのかとも悩みましたが、せっかくですので、アポロンにすることにします。

ネットで実車らしい写真を見つけたので、アップしておきます。


白黒なのが残念だなあ。

2012年8月19日日曜日

マーチ761B/イアン・シェクター/1977/エーダイ


エーダイのマーチ761Bです。特にドライバーの指定はありませんが、ナンバーとカラーリングからすると、これはイアン・シェクターのマシンですね。

オートスポーツ77年3-15号の表紙(の上半分)がシェクターのマーチ761Bです。


アルゼンチンGPのレースレポートに、簡単なマシン紹介がありました。

「マーチは昨年タイプの古いマシンを持ち込んだが、新顔のふたりのドライバーのために目新しいペイントが施され、新しいスポンサー・ネームがつけられている。」

「マーチ761Bの変更点は、フロント・サスペンションとスタビライザーのレイアウト(ロッキードの新しいツイン・キャリバー・ブレーキを装備するため)である。」

「また、リア・スタビライザーはロータス式のアジャスタブル・システムを採用している。」


ブレーキに関しては、オートスポーツ77年2-15号にこんな記述がありました。マーチ6輪の紹介記事の前半部分です。

「マーチ761は、76年シーズンの終盤にはくわめてコンペティティブなマシンに成長していたが、ふたつの大きな弱点をかかえていた。ひとつは、レース中に左のフロント・タイヤが過熱しやすく、ほかのマシンと比較して、ブレーキの効きが落ちるということだった。」

「77年1月のブラジル・グランプリには、残念ながらマーチの新しい6輪車は出場しないが、その代わり、改造型の761Bが出場するという。このモデルには新しいツイン・キャリバーのブレーキ系、そしてドライバーズ・シートからアジャストできるバリアブル・アンチ・ロールバーが装着されるはずだ。これは、レース序盤の、まだ燃料タンクが満タン状態のとき、左のフロント・タイヤにかかるロードをゆるめて、そのオーバーヒートを防ぐための新しい機構である。このほか、細部に多くの改良が加えられ、全体としてかなりの重量軽減が実現している。」


ただ前年と違い、761Bは「コンペティティブなマシンに成長」はしてくれませんでした。オートスポーツ1977年10-1号のドイツGPのレースレポートに、761Bについてイアン・シェクターのこんな発言が載っています。

「マーチではI.シェクターが1番速く、18位のタイム。プラクティスにはロビン・ハードも姿を見せたが、ヨーロッパでのF-1レースに彼がやってきたのは初めてのことだ。『彼のおかげでセッティングもうまくいった』とイアンは語っており、走るごとにタイムを向上させて、最終セッションでは1分56秒35を出した。しかし、ハードはレース前に帰国してしまい、土曜日の夜に彼が指示したセッティングはめちゃめちゃだった。そのためイアンは『こんなひどい車には来年からもうのらない……』とさえいう始末。」

マーチはこの年かぎりでF1から撤退するので、シェクターの決心は守られることになります。ただシェクター自身も78年はF1のドライバーズシートを獲得できなかったのですが。



2012年8月10日金曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/ミニチャンプス


ミニチャンプスのウルフWR1は、以前、アルゼンチンGPモデルを紹介したことがありますが、こちらは日本GPモデル。アルゼンチンGPは1977年の初戦(本戦は1月9日)、日本GPは最終戦(10月23日)になります。

2台を並べてはっきりわかる違いはエンジン上のカウルですかね。日本GPにはカウルがついていて、そこに田宮模型のデカールが貼られています。


予選は6位。オートテクニック1977年12月号のレースポートより。

「富士は初めてのウルフWRは貴重なセッティング時間をエンジンとミッションのトラブルで損失,ようやく1分13秒15としたのは内容を考えれば上々の出来であった.」

ちなみにポールポジションはアンドレッティの1分12秒23です。

シェクターはスタートに成功、ハントに続いて一気に2位を獲得します。その後も2位争いを続けます。

「しかし43周目にシェクターは耐えきれない操縦性に業を煮やし,ピットでタイヤとリアウイング調整.ために大きく遅れるがその後俊足ぶりを見せ“1分14秒30”の最速ラップを71周目に樹立する.」

結果は10位。とはいえ初挑戦のこの年、ドライバーズランキングで2位に入ります。コンストラクターズランキング4位。ドライバー1人のチームとしてはかなり優秀な成績ですよね。

2012年7月28日土曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/YAXON


前にミニチャンプスとエーダイのモデルを紹介したウルフWR1ですが、今度は、YAXONのモデルです。

ミニチャンプスの項を書くときに本棚から引っ張り出したオートテクニック1977年3月号のレースレポートに、WR1とは関係がないんだけど、ちょっと気になる一文がありました。


「2年前の前回GP以降,アルゼンチンは軍事政権下にあり,けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではないのだが,ラテンアメリカの人々は政治とプロスポーツを両立させ2年ぶりのF1GPレースをやってのけた.ためにいつものGPシーンには見られぬ,軽機関銃と鉄かぶとの“カーキ色”が目立っていた.」

「“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ですか。どういう時代なんだろう。

オートスポーツ1977年3-15号の巻頭グラビアを開くと、“カーキ色”が目立つ写真が載っていました。シェクターとレースクイーン(?)の後ろに兵士がずらり並んでいます。


レースレポートに、オートテクニック以上に詳しい記述がありました。見出しもずばり「戒厳令下のグランプリ・レース」。ちょっと長いですが、レースを取り巻く様子がわかるので引用します。

「まず、“舞台”の説明からはじめよう。これからして、他のいかなるグランプリとも異なっているからである。“はなし”はブエノスアイレス空港から始まった。ここは2年前と変らず、依然として仮建築のようなお粗末な建物だが、これはすぐに慣れてしまう。アルゼンチンでは、こんなことはごくあたり前のことなのだ。

 すぐに慣れるわけにはいかないのが、いたるところに見かける兵隊だ。それも、数百人という数である。どこへ行っても、軍隊を見かけることができる。彼らは完全武装し、軍服は破れてきたなく、不気味な弾帯を肩からぶら下げている。彼らをちらっと見ると,彼らもじっとわれわれを注視する。すこし離れたところにはトラックが停車していて、数10人の兵隊が武器をもって乗り込んでいる。さらにそのうしろのほうには警察のパトロール・カーが2台。それぞれ中には機関銃をもった4人の警官が同じように緊張した顔つきで構えている。すぐにでも行動に移れるように待機しているのだ。これが全部われわれのためだから驚く。

 われわれが2台のバスに分乗して空港を離れるとパトカーはサイレンを鳴らし、1台はバスの前方を走り、残りの1台は後方から護衛し、他の車両はすべて通行禁止となる。こうして、われわれは厳重に護衛されて市の中心部まで25kmのドライブをしたのだ。ロンドンからブエノスアイレスまで21時間のフライトではじゅうぶんな睡眠がとれなかったが、このバスのなかでも眠るどころではない。前と後ろにサイレンの音が鳴り響き、まるで“護送”されるような雰囲気であり、まったくグランプリ・レースとは異質の雰囲気といわねばならない。

 これほど厳重な護衛が実施されたのは、反政府ゲリラ活動に対する警戒からである。彼らはひんぱんに事件をひきおこしており、グランプリの機会に騒乱が発生する可能性があるし、そうなればわれわれは標的になるのだという。

 ホテルの中ではそれほど大げさなことはなく、大した問題はなかったが、そこを一歩出てサーキットへ行くと、またもや大変な事態である。2500人もの警官が警備に当たっていて、いたるところでバッグの中味を調べ、通行許可バッジを確認し、身分証明書の提示を求める。はじめのうちは、われわれもおもしろがっていたが、しだいにめんどうになり、最後にはひどい苦痛になってきた。その検査の時、私は大事なフィルムを1本没収されてしまったのだ。アルゼンチン軍隊の立派な任務遂行のありさまを写したのが彼らの気に入らなかったらしい。まったく常識では考えられない。

 私は、一体何のためにはるばるアルゼンチンまでやってきたのだろうか、と考え込んでしまった。」


「エビータ」の夫、ファン・ペロン大統領が死んだのが1974年7月。その後、ペロンの2人目の奥さんイザベルが世界初の女性大統領になるわけですが、1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラがクーデターを起こし、政権を握ります。オートテクニックには「2年前の前回GP」、オートスポーツにも「ここは2年前と変らず」という記述があるように、前年のアルゼンチンGPは中止されているのですが、なるほど、それどころではなかったのですね。

ちなみにビデラは81年まで大統領を続けますが、1977年はまさに「汚い戦争」が始まった直後にあたります。

「汚い戦争(スペイン語: Guerra Sucia 英語: Dirty War)とは、1976年から1983年にかけてアルゼンチンのホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla)将軍率いる軍事政権によってアルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為を指す言葉である。」
(ウィキペディアより)

「アルゼンチンを知るための54章」(明石書店)には、ビデラ政権の最優先課題は「治安回復と対ゲリラ戦であった」と書かれています。

「徹底的に左派系の武装勢力と戦い、掃討作戦を実施した。ゲリラは一人ひとりが一つの細胞組織として行動していたため、ゲリラと断定した者だけではなく何らかの形で関係していた者も取り締まりの対象となり、結果的に一万人以上がいまだに行方不明になっている(人権団体は三万人以上と推定している)。」

こういう文章を読むと、当時のアルゼンチンが本当に「けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ことが、よくわかります。

「瞳は静かに」という映画は、まさに1977年のアルゼンチンが舞台。当時の恐ろしい状況が物静かに語られます。

2012年7月7日土曜日

マクラーレンM23/ジル・ビルヌーブ/1977/ミニチャンプス


ミニチャンプスのマクラーレンM23。コックピットまわりが取り外しできます。

ビルヌーブのF1デビュー戦モデルですね。1977年の第10戦イギリスGP。本戦は7月16日に行われました。

オートスポーツ1977年9-15号のレースレポートを見ると、見出しに「新人ビルヌーブが“ベテラン”を食う!」と書かれていました。

「5列めはハントのスペア・カーのマクラーレンM23にのった新人、G.ビルヌーブがはいって大センセーションをまきおこした。このプラクティスの好成績で、彼のもとにはさらにふたつのF-1レースから出場の招請がきたほどだ。ビルヌーブのM23はレギュラー・カーとはまったくちがったセットになっているのだが、『彼のフィード・バックはすばらしい。プラクティスのあとで。ギヤボックスにわずかの振動があるというので分解してしらべたところ、ベアリングがひどく摩耗していた……』とチームのメカニックはビルヌーブの落ち着いたドライブに驚いている。」

並の新人ではないことを強調した書き方ですね。

ただ本戦は予選ほどうまくはいかなかったようです。

「10周めにはビルヌーブのマクラーレンM23もトラブルに見舞われた。彼はチームメイトのJ.マスと7位争いを演じていたのだが、突然、水温計が上がりはじめたのでおどろいてピットに飛び込む。よく調べてみるとなんとメーターの故障とわかり、すぐ再スタートをしたがこれで不運にも2周をロスしてしまった。これがなければ、デビュー戦で入賞という快挙を達成したところだった(彼はけっきょく、トップから2周おくれの11位でレースをおえたが、名誉ある“マン・オブ・ザ・ミーティング”賞を受けた)」

フィードバック能力に優れた新人でも、さすがにメーターの故障には気づかなかったわけですね。まあ当然と言えば当然か。

ちなみにエースドライバーのハントは、マクラーレンM26でポールポジションを獲得。レースでも優勝しています。


2012年7月3日火曜日

マーチ761B/アレックス・リベイロ/1977/ミニチャンプス


マーチの型番は、基本的に「年号」+「カテゴリー」。なので761は「1976年」+「F1」ということになります。ただ、1977年は、型番は一年前の761のまま、巻末に「B」がついているだけだったりします。やる気ないなあ(笑)

1977年、リベイロは一度も入賞していません。順位は8位が最高位。第11戦ドイツGPと第16戦カナダGPです。

この年のカナダGPは日本GP直前だったため、当時、雑誌ではあまりスペースを割かれていませんでした。ただでさえページ数が少ないのに入賞もしていないマシンを扱っている可能性は低いに違いない。そう考えてドイツGPのほうを調べてみました。

まずはオートスポーツ1977年10-1号。レースレポート本文では、予選結果のところで「10列目はV,シュパン(サーティーズTS19)、A.リベイロ(マーチ761)。」と結果のみ。本戦はまったく触れられていません。

ただ写真が1枚載っていました。キャプションは次の通り。
「このところ冴えないマーチ。ロビン・ハード御大も見えたが、リベイロがやっと8位。」

冷たいなあ(笑)。

オートテクニック1977年9月号では、やっぱり予選結果で触れられていますが、オートスポーツに比べると少し長めです。

「18位はイアン・シェクターのマーチでバーン・シュパンのサーティースを従え,その隣が南ア以来やっとクォリファイ通過のアレックス・リベイロ.」

ドイツGPは第11戦、南アフリカGPは第3戦ですから7戦連続予選落ちだったわけですね。

「やっとクォリファイ通過」「やっと8位」と、両誌に「やっと」が使われているところに、苦戦ぶりがしのばれます。

これはリベイロだけの問題ではなく、チーム全体の問題でした。前年、19ポイントをあげコンストラクターズランキングで7位に入ったマーチですが、77年はポイントなし。そしてこのシーズンを最後にマーチはF1から撤退します。

2012年6月28日木曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/エーダイ




エーダイのF1シリーズです。デカールが剥がれ始めています(笑)

オートスポーツ1977年6-15日号の連載「F-1マシン・ストーリー」の第六回でウルフWR1が取り上げられていました。筆者は望月修氏。個人的に興味深かったのはノーズのくだりです。

「76年も終わりに近づいた11日9日、ロンドンのロイヤル・ランカスター・ホテルで発表された初代モデルは、フロントウイングとスポーツカーノーズを組合わせた点からも、ボディ・サイドの大きな曲面など、308シリーズとの共通性を感じさせる。」

「308 シリーズとの共通性…」というくだりは、WR1をデザインしたのが、ヘスケス308シリーズで実績を上げたデザイナー、ハーベイ・ポストレスウェイトだっ たからです。ヘスケス308、そしてそれを改良したウイリアムズFW05は、スポーツカーノーズの前にウイングをつけるという形状していました。発表時の WR1も同じスタイルを取っていました。

オートスポーツ1977年1-15号の表紙がまさに発表時のWR1です。「フロントウイングとスポーツカーノーズを組合わせ」ているのがわかります。


「延べ11時間におよぶ風洞実験」「そして、その数倍におよぶ時間を費やして、コンピューターによるデータ分析が行われた」

「ところが、シェイクダウン・テストでは、空気抵抗、ダウンフォースの両面で満足な結果が得られなかった。ノーズ部分の整形に関してはかなり気を配った積りのはず、実走行テストでは見事に期待を裏切られてしまった。フロントのダウンフォースが少なく、そのためアンダーステアに悩まされ、その対策にフロント・ ウィングの仰角を増すと、今度はスポーツカー・ノーズとの干渉で著しく空気抵抗を増してしまうのである。」

「タイレル007風のスポーツカー・ノーズはまったく無用の長物どころか、かえって有害であるとの結果になった。」

結局、WR1はスポーツカーノーズを取り去り、ウイングノーズでデビュー戦を迎えます。そして初レースで優勝を飾ります。

個 人的にはスポーツカーノーズのF1マシンが大好きなのですが、残念ながら「彼ら」はこのあたりでその役割を終えることになります。スポーツカーノーズの F1が最後に優勝したのは1976年イタリアGPのマーチ761(この話はミニチャンプスのマーチ761の項にも書きました)。1977年にはタイレル P34、サーティーズTS19、マーチ761B、ルノーRS01(たぶんオランダGPのみ)、コジマ009とかろうじて残っていましたが、1978年の ニューマシンにスポーツカーノーズのF1マシンはありませんでした。

2012年6月3日日曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/ミニチャンプス


アルゼンチンGPのウィナーです。チーム・ウルフがコンストラクターとしてF1に挑んだ初めてのレース。『F1全史1976-1980』によると「緒戦で優勝した例としては過去にメルセデスベンツ('54年)があるのみだ」そうです。

オーナーはカナダの石油王ウォルター・ウルフ。1976年に資金難に苦しむ「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」に共同オーナーという形で参加。チームの実権を握り、翌年、チーム名を「ウォルター・ウルフ・レーシング」と変更してF1に参戦します。

デザイナーは前年のウイリアムズFW05をデザインしたポストレスウェイト。ウイリアムズFW06のときに紹介しましたが、クリス・エモンに「ヤツの頭は雲の上なんだ」と非難されたポストレスウェイトです(笑)。

前年のマシンはエモンいわく「ひどいマシンだ。いや本当にひどい」そうですが、翌年のWR1はいきなり第1戦目で優勝を遂げます。

レース本戦は1月9日に開催されました。2012年は3月18日ですから、昔のF1関係者はずいぶん早くから働いていたんですね。

「シェクターのウルフがデビューを飾る! 荒れ模様の開幕戦,77年は群雄割拠か」

オートテクニック1977年3月号のレースレポートのタイトルです。

「いきなりダッシュしたブラバム加入のジョン・ワトソン,彼を抜き去ったチャンピオンのジェイムズ・ハント,そして終盤先頭に出たカルロス・パーチェ,いずれも相次ぐ交代劇のすえシェクターに勝ちを譲った.53周のこのレース,ウイナーのシェクターは48周から6周しか1位を走らなかった.」

そんなレースだけにジョディ・シェクターにとっても予想外の勝利だった様子。

「“もしレース前に,キミが優勝候補の最右翼だよと言われたとしても,私はとっても信ずる気はなかったし,まったくこんなことになろうとはこれっぽちも考えていなかった”──ジョディ・シェクターのウルフWR1初優勝の弁である.」

実際、緒戦の勝利は「ラッキーだった」という声も多かったようです。しかし77年のコンストラクターズランキングは4位、ドライバーズランキングは2位。6戦のモナコGP、16戦のカナダGPでも優勝とシーズン通して好成績を挙げます。

ちなみにチームから離脱したフランク・ウィリアムズは、新たに「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を立ち上げマーチ761でF1に挑みますが、この年のポイントはゼロ。テールエンダー脱出は、FW06で挑む1978年シーズンまで持ち越されます。



2012年5月28日月曜日

タイレル007/高橋国光/1977/スパーク


1970年代のF1は、ワークスチームの古いマシンをプライベートチームが購入し、地元のレースに参戦するということがありました。70年代は、1つのマシンを改良しながら数年使うというのが当たり前だったので、こういうことが可能だったのですね。

これもその1台。1977年の日本GPのために、日本のプライベーターが改良したタイレル007です。まず76年のF1 in Japanのためにヒーローズレーシングが購入し、星野一義がドライブ。翌年、メイリツ・レーシングがこれを買い取って高橋国光のドライブで参戦しました。

成績は予選22位、決勝は9位。3年前のモデルで9位というのは大健闘ですよね。ちなみに前年の星野一義と異なり、ノーズはスポーツカーノーズからウイングに戻しています。スポーツカーノーズのマシンが最後に勝ったのは1976年のマーチ761(第13戦のイタリアGP)が最後。そういう意味で、このマシンが前年のスポーツカーノーズをやめ、ウイングを選んだのも、スポーツカーノーズの終焉を象徴しているような気がします(個人的にスポーツカーノーズのマシンがスキなんですよ)。

1977年の「AUTO SPORT」12ー15日号に、このマシンにスポットを当てた記事が掲載されています。執筆者はたてうちただし氏。

「メイリツ・レーシングのグランプリ挑戦記/決勝日の朝に最後のネズミをつかまえた」というタイトルの記事によると、このマシンは「今日は関東、明日は関西と老いの身にムチ打って展示場から展示場に流れていた」そうです。「F1が○○にやってくる」みたいな客寄せイベントの目玉に使われていたんでしょうね。それが急遽、F1に参戦することが決定。実際にテストランを始めたのは9月になってからだとか。

タイトルにある「ネズミ」というのは、これだけではわかりづらいですけど、セッティングがうまくいかない原因のことです。肝心なところでエンジンがバラつく。一つ一つ問題を解決していったチームが、最後の一つが「ソレノイドのマスター・スイッチ」だということを発見したのは決勝の朝のこと。もう時間がありません。そのとき、たてうち氏がとった選択は、タイレルのピットへ行って、ケン・タイレルに「わけてもらえないか」と相談するというものでした。

「彼は、もうすぐレースが始まるというのに、快よくわれわれの注文に応じてくれ、わざわざパドックまでもどってパーツを探してきてくれ、さらにスイッチの状況を確認しにわれわれのピットまで出向いてくれたのです」


いい話だなあ。

こうして、ドサ回りに身を落としていたマシンが、周囲の人の熱意にも支えられて、見事9位と完走を果たします。なんだか『ロッキー』みたいなストーリーですね。「ソレノイドのマスター・スイッチ」が何かわからない私のような人間でも感動できます(笑)。今の企業秘密の固まりみたいなF1では、夢想するのも難しい筋書きです。いい時代だなあ。

この号には11月6日(F1は10月23日)に行われた鈴鹿グランプリ(F2ですね)のレポートも載っているのですが、このレースに出ている「外人組」が豪華です。優勝したのはリカルド・パトレーゼ、エンジントラブルに泣いたけれど予選9位からごぼう抜きで首位に立ったのはディディエ・ピローニ、そして、その年の「F-2選手権6位とめざましい成績を残した“ケケ”ロズベルグ」(レースは予選3位だったけれど、決勝はリタイア)。みんな若かった。


少し遡りますが、77年11-1号はこのタイレルが表紙になっています。ただし、フロントはまだスポーツカーノーズです。記事には「マシン自体はexヒーローズ・タイレルであるが、小島エンジニアリングを経てメイリツ・レーシングが購入したもの」とあります。小島も関係していたのか。


2012年5月26日土曜日

ルノーRS01/ジャン・ピエール・ジャブイーユ/1977/カルツォ


エーダイのRS01を暫定的に「オランダGP」モデルと断定しましたが、こちらはメーカーが正式に「DUTCH G.P.」と宣言しているモデルです。QuartzoのルノーRS01。

成績を見ると、予選は前走の21位から10位へとジャンプアップしています。

「オートテクニック」10月号を開いてオランダGPの記事を見てみます。

「10位には西ドイツとオーストリアを欠席し,インレットマニホールド,エキゾーストシステム,燃料ミクスチャーなどいろいろ改善を加えてきたルノーRS10が飛び込んできた.ジャン・ピエール・ジャボイユは初日こそこの改善以前のマイナートラブルで遅かったが,2日目には3秒も一気に削り1分20秒13をマーク.堂々2戦目にしてターボF1は予選10位を奪い,チームは喜んでワインを抜いた.」

やっぱりオートテクニックは昔から技術志向ですね。本戦に関してはこんな感じです。

「ジャボイユのルノーターボは6位と善戦を続け,ひょっとしたら初入賞もやってのけるかもと思われはじめた矢先,39周したところでリヤサスペンション破損というエンジンではないフレーム関係のトラブルにより,リタイアとなった.大いに惜しまれるジャボイユの健闘であったし,今後の希望もかなり明るくなったと評価してよいだろう.」

せっかくなのでオートスポーツも見てみます。1977年11-1号です。

「ルノー・ターボが再びこのレースから、カムバックした。エア・インレットの形状をモディファイしたことにより、6気筒エンジンにこれまでより均一化したエアミックスを送り込むことができ、デビュー戦で発生したターボチャージャー問題に対処している。加えて、より耐久性のあるターボ・ブレード(前のやつは、シルバーストーンでオーバーヒートしてしまった)が組み込まれている。ドライブシャフト・アップライトにも新設計の部品が使われているが、それでもプラクティス初日が終わって、J.P.ジャブイーユが駆るルノー・ターボは、予選結果表の下から1番めであった。最初のプラクティス・セッションが始まってすぐ、ターボ・システムの横にあるインテークが石を吸い込んで、インペラー・ブレードを破損。第2セッションでは、ほんの2、3周したところでターボ・ラジエーターの内部の部品がエンジンに落ち込んで、ブローアップ。まったくどうしようもなかった。が、どうやら土曜日のセッションは、思いどおり進んだようで、最終アタックで10番めのタイムを計時。だがジャブイーユにとしては、ミシュラン・タイヤのハンドリングに不満のようで、高速コーナーではリアが非情に不安定になるといっていた。」

あれれ、オートスポーツも技術志向でした。やはり初のターボマシンとなると、技術の話にならざるをえないのでしょうか。それにしても予選10位にしては文章が長い。それだけ関心度が高かったんでしょうね。一方で本戦はあっさり。

「一時は6位と健闘を見せたルノー・ターボのジャブイーユも、サスペンションを破損して次のレースに夢を託す。」

夢を託したイタリアGPはオランダGPほどはうまくいかなかったのですが。


2012年5月23日水曜日

ブラバムBT45B/ジョン・ワトソン/1977/エーダイ


ブラバムBT45Bは、前年投入したBT45の改良型。エンジンはアルファロメオです。パワーが売りでしたが、燃費が悪いのが欠点でした。

ドライバーズランキングでジョン・ワトソンは13位。ポイントを獲得したのは第3戦の南アフリカGPが6位、第8戦スウェーデンGPが5位、第9戦フランスGPが2位。

調べてみると、このフランスGPはかなりドラマティックなレースだったようです。

予選3位だったワトソンは、5周目に予選1位のハントを抜いてトップに立ちます。これをロータス78のマリオ・アンドレッティが追いかけます。以下はオートスポーツ1977年9-1号より。

「ワトソンはしだいにリードを広げていく。アンドレッティのばあいは、ハントをぬくのはワトソンほど容易ではなかった。だが、アンドレッティも18周め、ハントがきついヘアピンのところでギヤ・シフトをミスして一瞬ふらついたスキに、これをぬいて2位に上がった。」

「アンドレッティとトップのワトソンとの差は7秒と開いている。が、彼はこの差をちぢめはじめた。40周めにはその差は4.8秒にちぢまり、50周めにはとうとう1秒。」

レースは80周です。最後の10周はアンドレッティがぎりぎりで抜けないという展開が続きます。そして最終ラップも半周を過ぎたときです。

「ワトソンのブラバムが突然おかしくなった。エンジン音がばらつき、とぎれとぎれになった。明らかに“ガス欠”だ。同時にコーナーのところで大きくスライドした。彼は車を立て直し、燃料ポンプのスイッチを入れると、エンジンは蘇生し、正常な“力”を取りもどしたが、すでにアンドレッティのロータスがアウトサイドに並んでいた。」

そしてアンドレッティが逆転で1位。ワトソンのブラバムBT45Bは2位でレースを終えます。

やっぱり燃費って大切なんですね。

オートスポーツ1977年9-1号の表紙はコジマ009。そういえば京商がコジマ009のミニカーを発売すると発表しましたね。楽しみです。







2012年5月22日火曜日

シャドウDN8/アラン・ジョーンズ/1977/スパーク

スパークから出たシャドウDN8。アラン・ジョーンズのドライブで、1977年のオーストリアGPで優勝しています。この勝利はアラン・ジョーンズにとっても、シャドウ・レーシング・カーズにとっても、F1で初めての(シャドウにとっては唯一の)勝利でした。

予選14位からスタートしたジョーンズは徐々に順位を上げ、16周めに2位へ。ただなかなかトップを走るハントとの差は縮まりません。ですが、残りあと11周というところで、ハントのマクラーレンM26がエンジントラブル。ジョーンズはトップに躍り出ます。

オートスポーツ1977年10-15号のレースレポートよりアラン・ジョーンズのコメント。



「前を走っていたハントがリタイアし、自分がトップになったのを知って、正直いってボクはパニックにおちいった。何しろ生まれて初めての経験なのだ。それからあとは、ただエンジンがブローアップしないように、タイヤが外れ落ちないように、と祈りながら走った」


1980年にはシリーズチャンピオンを獲得するジョーンズですが、まだ初々しいですね。

この号では「F1マシン・ヒストリー」という記事でもシャドウDN8を取り上げています。

「オーストリアで勝ったマシンはDN8の改良型である。(中略)DN8改の主な変更点は、オイルクーラーのマウント位置、およびボディのサイド・カウルの形状変更、さらにエンジン・カウルの取り外しである。」「以上の改善により、空気抵抗を著しく減少し、空力的特性も大いに向上した。その結果、走行性能向上に格段の進歩が見られた。」

記事には77年代前半のモデルと優勝したマシンを上下に並べて比較していますが、たしかに、1)オイルクーラーがフロントに移動し、2)サイドのカウルがスッキリしていて、3)エンジン上のカウルがなくなっています。これで空気抵抗が減少し、重量も軽くなったと記事は解説しています。

「その成果がDN8改で、曲がりなりにもF-1サーカスの立役者たる資格を獲得することになった」

ただスパークのミニカーを見ると、記事通り、オイルクーラーはフロントにあり、サイドのカウルも以前よりスッキリしていますが、エンジン上のカウルはついています。オートスポーツの解説記事の写真は、エンジンがむき出しのまま。どういうことだろうと思って、もう一度、オーストリアGPのレースレポートを見ると、そこに載っているDN8の写真は、スパークと同じようにエンジン上にカウルがついていました。

なぜこういうことが起きたか、同じ仕事をしているので思いつくことがないわけではありませんが、インターネットがない時代のことを今からあれこれいうのも ちょっと違うよなと年寄りなので思ったりします。そういえば、新人の頃、上司にファックスがなかった時代のことを語られて「そんなことを言われてもな」と 思ったのを思い出しました。ちなみにその上司は新人時代、コピーがなかった時代のことを語られて同じことを思ったそうです(笑)。

【追記】オートスポーツ1977年5-1号の表紙が改良前のDN8でした。これと今回のミニカーを比べると、「オイルクーラーのマウント位置、およびボディのサイド・カウルの形状変更」はわかりやすいと思います。


2012年5月20日日曜日

ルノーRS01/ジャン・ピエール・ジャブイーユ/1977/エーダイ



1980年代にF1を席巻するターボエンジンのさきがけですね。

1976年にテストカーを走らせたルノーは、1977年にF1に参戦します。3リッターエンジン全盛期に、1.5リッターターボでの挑戦でした。

この年は第10戦イギリスGP、第13戦オランダGP、第14戦イタリアGP、第15戦アメリカGP、第16戦カナダGPと計5レースにエントリーしています。ただポイントは獲得できませんでした。

ミニカーはエーダイグリップ。メイド・イン・ジャパンです。漢字で書くと「永大」。プラモデルメーカーですね。1/43のF1モデルをいくつか出しています。

さて、このモデルは、参戦した5つのGPのうち、どのレースのマシンでしょう。昔のミニカーなので、GP名などは書いてありませんが、この年のルノーはフロントをウイングノーズとスポーツカーノーズで使い分けているので、少しは絞れるかもしれない。そう考えて、ちょっと調べてみました。ついでに予選/本戦の結果も。参照したのは当時のオートスポーツとオートテクニック、そして『F1全史1976-1980』です。

イギリスGPは、予選21位、本戦は16周リタイア。ウイングノーズです。
オランダGPは、予選10位、本戦は39周リタイア。スポーツカーノーズ。
イタリアGPは、予選20位、本戦は23周リタイア。ウイングノーズ。
アメリカGPは、予選14位、本戦は30周リタイア。ウイングノーズでした。
カナダGPは、予選落ち。フロントの形状は確定できませんでした。

話題性抜群のマシンだけあって、どのGPレポートでも必ずルノーの写真は載っていたのですが、予選落ちしたカナダGPだけは、当時のオートスポーツにもオートテクニックにも写真がありません。次のレースが日本GPだったので、カナダGPに割けるページ数が少なく、予選落ちのマシンを載せる余裕がなかったのかな。

とはいえ、このタイミングでスポーツカーノーズに戻すというのも考えづらいので、ここは暫定的にオランダGPモデルということにしてしまいましょう(笑)。

※追記 先日、ジョーホンダ写真集の1冊「TURBO CARS 1977-1983」を買ったのですが、ここにカナダGPの写真も載っていました。なんと、スポーツカーノーズでした。というわけで、このエーダイのRS01は「オランダGPモデル」とは言い切れなくなってしまいました。さてどちらなんでしょうか?

2012年5月15日火曜日

フェラーリ312T2/ジル・ビルヌーブ/1977/マテル


フェラーリ312T2のミニカーは何台か持っているのですが、基本的にはニキ・ラウダのモデル。これは1977年のカナダGPでジル・ビルヌーブがドライブしたマシンをモデル化したものです。

1977年はビルヌーブがF1にデビューした年です。成績はどうだったのか、ちょっと調べてみました。

第10戦のイギリスGPでマクラーレンからデビューしたビルヌーブは、第16戦のカナダGP、そして最終戦の日本GPに今度はフェラーリから出走しています。イギリスGPが11位、カナダGPが12位、そして日本GPは事故でリタイア。この事故で関係者と観客2名が死亡、6名が重軽傷を負いました。このレースを最後に、1987年までの10年間、日本ではF1グランプリは開かれなくなります。

本棚にあったオートスポーツ1977年12-1号にカナダGPの記事が出ていました。表紙はカナダGPの前のUSグランプリで2度目のワールドチャンピオンに輝いたラウダです。


レース結果を見ると、完走80周のところ、「ドライブシャフト破損」のため、76周でレースを終えたようです。

カナダGPのレポートの中に、ラウダとビルヌーブに関するちょっとしたエピソードが載っていました。

 金曜日の朝、ニキ・ラウダはフェラーリ・チームに対して、正式にこのレースに出場しないと通告、そのあとTVを通じて「私はフェラーリのやり方にうんざりしている。チームはこのレースに3台もエントリーするので、私のマシンはこれまでのような整備を期待できない……」と語り、レースのプロモートの金を受けとって、さっさと帰国してしまった。

この3台目のマシンに乗っていたのが、地元カナダのビルヌーブでした。



ロータス77/マリオ・アンドレッティ/1977/スパーク


スパークの「ロータス77 ブラジルGP」です。ドライバーはマリオ・アンドレッティ。6132円で購入しました。

1976年のブラジルGPはシーズン第1戦。アンドレッティは6周でリタイアしています。

リタイアで始まったロータス77ですが、さまざまな改良を加え、最終戦のF1 in Japanで優勝します。F1 in Japanで優勝したマシンは、レーヴコレクションから発売されたモデルで持っているのですが、並べてみると、別のマシンといってもいいかもしれません。


ブラジルGPとF1 in Japan、どちらもアンドレッティ・モデルですが、ナンバーが違います。どうしてだろう。

調べてみると、シーズン第1戦(ブラジルGP)でのエースドライバーは、アンドレッティではなく、ロニー・ピーターソンなんですね。ピーターソンはこの第1戦のみで、第2戦からはマーチへ移籍します。アンドレッティも第2戦、第3戦はロータスではなく、パーネリから参戦。パーネリが第3戦でF1から撤退すると、アンドレッティは次の第4戦から再びロータスに戻ります。でエースドライバーとして5番のマシンに乗るようになったと。

ピーターソンとアンドレッティは1978年に再びロータスでチームメイトになるわけですが、そのときは立場が逆転していて、そしてシーズン終盤にあの悲劇が待っています。

2012年5月14日月曜日

ヘスケス308E/ルパート・キーガン/1977年/Racing Models

昨年から「Racing Models」というブランドのモデルカーを何度か買っています。コレクション対象の1976年から80年のマシンをかなりの数、モデル化しているからです。

Racing Models

昔はミニチャンプス、最近はスパークなど、いろいろなところがこの年代のマシンをモデル化していますが、Racing Modelsの特徴は、モデル化するのがその年を代表するマシンだけではないこと。コパスカーだったりサーティーズだったりエンサインだったり。優勝してないのはもちろん、当時6位までに与えられたポイントすら獲得したことないんじゃないかと思うようなマシンがずらりと並んでいます。

ミニチャンプスやスパークは、こういうマシンはモデル化してくれません。キットになっているマシンはありますが、自分じゃ組み立てられないし。そういう意味ではかなり魅力的です。値段は正直高いのですが、他に選択肢がないのだから仕方がない。

最初に買ったのが、このヘスケス308Eでした。メーカーのサイトに直接注文したのですが、価格は本体が74ポンドで、送料は10ポンド。計84ポンドです。実際の請求金額は1万474円でした。やっぱり安くないですよね。

月曜日の朝、サイトで注文して、次の日曜日の昼に届きました。さっそく箱を開けてみました。


いきなり「注意してください」という日本語が飛び込んできました。各国語で注意書きが書かれています。裏面を見ると…


「あなたのモデルを持ち上げる心配を取ることを確かめなさい。
底を支え、表面に包装ことをからそれを取る前にモデルを置くことを確かめな」


言いたいことを理解するなら、「包装を破いて取り出すときに落とさないように気をつけてください」ということですかね。

 
箱はオレンジです。


モデルはラップで固定されていました。

正面から見て、ウィングが曲がっているのは、このラップのせいじゃないかと思うんですが(笑)。


完成度は正直「?」という気もしますが、他にないんですから、仕方がありません。いや、そんなことを言っちゃいけませんね。モデル化してくれたことを感謝しないと。

ヘスケス308E。1975年限りでF1活動を終えていたヘスケスが、1977年、1年ぶりに復帰したときのマシンです。女性のイラストがボディに描かれているのは、この年のスポンサーが雑誌のペントハウスだったから。ちなみに1978年はオリンパスがスポンサーになります。

ナンバーは「24」。となると、ドライバーはルパート・キーガンです。第12戦のオーストリアGPで7位に入っているのが最高位。前にも書いたとおり、当時の入賞は6位までなので、結局年間通じてポイントは獲得できませんでした。そんなマシンをモデル化して、どのくらいのニーズがあるんでしょうw。

『F1全史 1976-1980』を見ると、ヘスケスが参戦したのは第5戦のスペインGPから第16戦のカナダGPまでの12戦。第17戦の日本GPには参戦していません。予選落ちはないけれど、一桁順位は4回(うちキーガンが3回。最上位はキーガンの7位)。

1977年のオートスポーツをぱらぱらめくってみても、ほとんど記述はありません。たいていは予選の説明で「○位はキーガン」と書かれるくらい。いちばん文章量が多かった9-1号でも、こんな感じです。

「7列目はブラバムのH.スタックとヘスケスのR.キーガン。彼のヘスケス308Eは、フロントのラジエター配置を変え、シャシーのセッティングを変えてハンドリングがずっと改善されたという。もっとも同じような改良型だったが、チームメイトのルバック、アートルのふたりは予選を通過できなかった。」
7位に入ったオーストリアGPでさえ、レポートが掲載された10-15号ではまったく触れられていませんでした。

カラーページに写真が載っていたのは、たぶん12-1号だけでした。

キャプションはこんな感じです。

「ヘスケス308EのR.キーガンが珍しく(?)頑張って10位にはいった」

ひどすぎるよ(笑)。