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2013年8月28日水曜日

タイレル007/J.シェクター/1976/スパーク



1976年の第4戦スペインGPモデルです。このレースでタイレルは六輪のP34を初めて実戦に投入します。ドライバーはパトリック・デバイユ。もう一人のドライバー、シェクターは前年モデル007での出走でした。

このレースでP34は予選3位。本戦でも25周でリタイアするものの3位を快走。その能力の高さを見せつけます。

次のベルギーGPからはP34の2台体制となるので、このモデルは、チームタイレルが実戦に投入した最後の007になるということですね。

2012年11月11日日曜日

タイレル009/D.ピローニ/1979/スパーク



タイレル009は1979年に投入されたマシンです。『F1全史』は「ロータス79をコピーしたかのような新型009(モーリス・フィリップ設計)は改良型ロータス79より良い出来だが、個性なし」とばっさり(笑)。

それでもエースドライバーのジャン・ピエール・ジャリエと、2ndドライバーのディディエ・ピローニは2回ずつ表彰台にのぼっています(すべて3位)。ピローニが最初に表彰台にのぼったのが、今回モデル化された第6戦ベルギーGPでした。

ベルギーGPのレースレポートが載ったオートスポーツ1979年7-15号を見てみます。

ピローニの予選結果は12位。11位はチームメイトのジャリエでした。

「6列目はタイレル009のジャン・ピエール・ジャリエとディディエ・ピローニ。比較的順調に予選を進め、ほとんどトラブル・フリーだった。」

実は名門タイレル、ここまでメイン・スポンサーがありませんでした。予選でブレーキ・フェードが発生した点について、ジャリエはこんなふうに答えています。

「『新しいスポンサーがつかなくても、ブレーキの交換くらいはやる余裕があるよ』とジャリエはジョークを飛ばす。このベルギー・グランプリ前に決まったメイン・スポンサー“キャンディ”(洗濯機や食器洗機を作る家電メーカー)のレタリングがボディに書込まれている。」

「Candy」というロゴが描かれたのはこのGPから。つまり、このレース以前の009をモデル化した場合は、ただ「Tyrell」とだけ書かれた青いマシンになるわけです。それはそれでほしい気もします。

レースはフロントローを独占したジャック・ラフィーとパトリック・デパイユのリジェJS11に、アラン・ジョーンズのウイリアムズFW07が挑み、首位を奪います。しかしマシントラブルでジョーンズはリタイア。2台のリジェは3位のシェクター(フェラーリ312T4)に10秒以上の差をつけます。

シェクターに迫るのが、ウルフWR8のジェームズ・ハントと、2台のタイレル。41周目、ピローニがハントをぬいた直後、ハントがジャリエを巻き込んでスピン。ハントはリタイア、ジャリエも順位を落とします。

首位を走っていたデパイユがリタイヤした後、シェクターがラフィーとの差を詰め、54周目に逆転。この時点でピローニは3位を走っています。ですが、後続の猛追を受けることになりました。

「観客をわかせたのは、このシェクターだけでなく、ビルヌーブの追い上げのほうがさらに歓声は大きかった。ビルヌーブはパトレーゼ──マイペースでジワジワと4番手に浮上して4番手に浮上していた──を抜き4番手に、そして3番手のピローニとの差もグングンちぢめ、残り8周というところでフェラーリがタイレルの前に出た。2番手のラフィーとは20秒もの差があったが、これも1周2秒の割でつめていく。」

ただ、ここでフェラーリのエンジンに異変が生じます。

「シケインのところでビルヌーブはフェラーリのフラット12エンジンの息つきを感じた。しかし、ストレートに出るとエンジンは再び吠えつづける。ここでビルヌーブは落ち着いて車をゆすらせ走らせ、タンク内のガソリンを1滴たりとも残さずピックアップしようとしたのだ。」

ビルヌーブは2位をあきらめ、3位を確保する作戦に変更します。ですが……。

「現実は、レースは、勝負は無情であった。ビルヌーブのフェラーリは、ついにガソリンを飲みつくし、グランドスタンドから見える最終コーナー手前でストップしたのである。ビルヌーブは車を降り、なおもフェラーリを押し進めようとしたが、時すでに遅かった。」

コースでストップをしたビルヌーブを横目に、ピローニはゴール。F1で初めて表彰台にのぼります。

翌1980年、ピローニはリジェに移籍し初優勝を遂げると、1981年にはビルヌーブがエースドライバーを務めるフェラーリへ移ります。その後の2人の関係は、ご存じの通り。チーム内で2人は対立し、その関係がビルヌーブの事故死の遠因になったと言われています。

2012年8月29日水曜日

タイレル007/O・シュトウパッヒャー/1976年/スパーク



1976年のカナダGPに、シュトウパッヒャーというドライバーが参戦したときのモデルです。カナダGPということはF1 in Japanの2戦前ですね。結果は予選落ち。星野一義のチームがスポーツカーノーズに変更したのは正解だったということでしょうか。

米国のWikipediaによると、シュトウパッヒャーはイタリア、カナダ、アメリカというF1 in Japan前3戦に参戦(笑)しています(Otto Stuppacher)。イタリアがDNS(「did not start」)、カナダとアメリカがDNQ(「did not qualify」)。イタリアGPは予選通過したけど、何かのトラブルで本戦には出走できなかったんですかね。『F1全史 1976-1980』を見るとイタリアGPも「DNQ」になっていますが。

007は、76年の星野一義モデルと77年の高橋国光モデルを持っています。このモデルはオリジナルに近い007が欲しくて購入しました。日本GPモデルは、いろいろカスタマイズされていますからね。これならオリジナルにボディーカラーも似てるし(笑)。

実はワークスも、76年の第4戦のスペインGPまで、タイレル007を使っていたりします。最近の70年代F1ブームに便乗して、どこかが76年の007もモデル化してくれませんかね。スペインGPならシート後方のエアインダクションも低くなっているはずですし。まあ、「76年のタイレルと言ったらP34」というのもわかるんですけど。

2012年7月5日木曜日

タイレル008/パトリック・デバイユ/1978/ポリスティル


ポリスティルのタイレル008です。

オートスポーツ1978年1-1号でカラー写真を掲載し、「フル・レポートは1/15号に掲載します。お楽しみにお待ち下さい。」と引っ張ったタイレル008ですが、それだけもったいつけただけあって、1-15号は、183ページから8ページ(+折り込み)にわたる、「大特集 “タイレル”とニュー“008”をあばく!」。自ら「大特集」とうたうだけあり、ニューモデル、デザイナー、ドライバー、スポンサー、そして6輪車に対するケン・タイレルの見解と、さまざまな角度からタイレルを分析しています。

記事の冒頭、「Part1 タイレル008の設計主眼」に008に関する解説がありました。

最初の見出しは「簡潔、容易に修理ができる!」です。「出る前に負けること考える馬鹿いるかよ!」というアントニオ猪木の言葉を思い出しました(笑)。でも、きっと大切なんですよね、こういう姿勢。

本文はこう始まります。

「モーリス・フィリップの設計になる新しいエルフ・タイレル008の大きな特徴は、ボディ内に電子計測システムが積み込まれていることで、これを使ってグランプリの公式予選のとき、実走行のデータを集めることができるという点だ。」

うーん、地味だなあ(笑)。

ちなみに「容易に修理ができる」という見出しは、デザイナーであるフィリップの発言から引用しています。

「現在ではグランプリ・レースは年間17レースがカレンダーに組み込まれている。私はこのハード・スケジュールをこなすのにもっとも適したマシンを設計することを心がけた。008は製作も容易で、本工場から遠くはなれたところでも容易に修理が可能なマシンとなっている。」

ちなみにフィリップの6輪に対する意見は以下の通り。

「6輪は特殊な車であり、特別なものなので、ほかのチームの車と直接に比較することはできない。私の考えでは、レースは出来る限り他のマシンと同じような構造のマシンでやるべきだ。」

「出来る限り他のマシンと同じような構造」って、やっぱり地味ですね(笑)。

ただこの保守的な路線はある程度成功を収めて、コンストラクターズは4位。前年の5位からワンランクアップしています。デバイユはドライバーズランキングでも5位でした。

2012年6月19日火曜日

タイレル008/パトリック・デバイユ/1978/RBA



タイレル008は、タイレルが6輪車の次に投入したマシンです。

このミニカーのブランドは「RBA」。ネットを検索すると、海外の分冊百科についてきた付録とあります。そうなんですか。うちにも何台かありますが、どれもネットオークションで手に入れたので、そんな氏素性は気にもしていませんでした。

1976年に初登場し、センセーショナルを巻き起こしたタイレルの6輪プロジェクトですが、翌77年には失速。あっさり6輪を断念したタイレルが、78年に投入したのが008でした。

デザインしたのはモーリス・フィリップ。ロータスにいたデザイナーです。

オートスポーツ1978年1-1号の紹介記事には、ロータス時代、「彼の製図板で描かれたレーシングカーのものがたりは、優に1冊の本になるほどだ」と書かれています。その中にはロータス49や72も含まれます。

「どれがチャップマンの手になり、どれがフィリップのものかははっきりしていないが、フィリップのデザインになるもののほうが多いことは間違いのないところだ。」


71年にロータスを離れ、パーネリと契約。その後、フリーとなっていたところに、ケン・タイレルに声をかけられたようです。

記事に載っていたフリー時代のエピソードがいい感じでした。

1976年、フィリップはブランズハッチでハンドリングの悪いコパスカーと格闘しているフィッティパルディを見て「いったいどんなぐあいなのだい……」と声をかけます。

「けっきょく。彼はコパスカーのシャシー・コンサルタントになることとなり、シャシー、サスペンション、冷却系、オイル系などについて助言をするこ ととなった。彼のおかげで、コパスカーは予選を通過するようになり、けして速くはないが、それでも非常におそいという状態から脱出することとなった。」

「けして速くはないが、それでも非常におそいという状態から脱出する」…誉めてないなあ(笑)。

1-1号は表紙もタイレル008。さらに2ページのカラーグラビアも掲載されています。



「ウワサのニューF-1“タイレル008”がようやくイギリスでベールを脱いだ。この日を待ち構えていた内外のモータースポーツ記者は、肌寒い秋雨の降る日であったにもかかわらず、発表会の行われたクランドン・パークにつめかけ、カメラのシャッターを押しまくる。もちろん、本誌特約員のJ.ハッチソン氏もこの008を撮り終えるや、500ccのオートバイに打ちまたがりカラー現像所に飛び込む。そして現像ができるとわがAUTO SPORTに送る速達便をかかえて郵便局に走り込んだのであった。」

これでグラビア記事の半分は終了(笑)。詳細については「フル・レポートは1/15号に掲載します。お楽しみにお待ち下さい。」。引っ張るなあ。

とりあえず008の特徴については、こんなふうに説明されていました。

「タイレル008はM.フィリップスが設計した野心作であり、正統派かつ現在のポイントを押さえた完成度の高い、いかにも即戦力の高そうなマシンである。」

「正統派」「現在のポイントを押さえた」マシンなのに「野心作」ですか。ただ「即戦力の高」いマシンであることは間違えありませんでした。

第1戦のアルゼンチンGPが3位。第3戦南アフリカGPで2位、第4戦のロングビーチGPは3位で、第5戦モナコGPでついに優勝。こうして振り返ると驚異のスタートダッシュです。ただ第6戦以降で表彰台に上がったのは第12戦のオーストリアGP(2位)のみでした。第6戦ベルギーGPから登場した、本物の「野心作」、ロータス79の前に影が薄くなった、という見方はひねくれすぎですかね。

2012年5月28日月曜日

タイレル007/高橋国光/1977/スパーク


1970年代のF1は、ワークスチームの古いマシンをプライベートチームが購入し、地元のレースに参戦するということがありました。70年代は、1つのマシンを改良しながら数年使うというのが当たり前だったので、こういうことが可能だったのですね。

これもその1台。1977年の日本GPのために、日本のプライベーターが改良したタイレル007です。まず76年のF1 in Japanのためにヒーローズレーシングが購入し、星野一義がドライブ。翌年、メイリツ・レーシングがこれを買い取って高橋国光のドライブで参戦しました。

成績は予選22位、決勝は9位。3年前のモデルで9位というのは大健闘ですよね。ちなみに前年の星野一義と異なり、ノーズはスポーツカーノーズからウイングに戻しています。スポーツカーノーズのマシンが最後に勝ったのは1976年のマーチ761(第13戦のイタリアGP)が最後。そういう意味で、このマシンが前年のスポーツカーノーズをやめ、ウイングを選んだのも、スポーツカーノーズの終焉を象徴しているような気がします(個人的にスポーツカーノーズのマシンがスキなんですよ)。

1977年の「AUTO SPORT」12ー15日号に、このマシンにスポットを当てた記事が掲載されています。執筆者はたてうちただし氏。

「メイリツ・レーシングのグランプリ挑戦記/決勝日の朝に最後のネズミをつかまえた」というタイトルの記事によると、このマシンは「今日は関東、明日は関西と老いの身にムチ打って展示場から展示場に流れていた」そうです。「F1が○○にやってくる」みたいな客寄せイベントの目玉に使われていたんでしょうね。それが急遽、F1に参戦することが決定。実際にテストランを始めたのは9月になってからだとか。

タイトルにある「ネズミ」というのは、これだけではわかりづらいですけど、セッティングがうまくいかない原因のことです。肝心なところでエンジンがバラつく。一つ一つ問題を解決していったチームが、最後の一つが「ソレノイドのマスター・スイッチ」だということを発見したのは決勝の朝のこと。もう時間がありません。そのとき、たてうち氏がとった選択は、タイレルのピットへ行って、ケン・タイレルに「わけてもらえないか」と相談するというものでした。

「彼は、もうすぐレースが始まるというのに、快よくわれわれの注文に応じてくれ、わざわざパドックまでもどってパーツを探してきてくれ、さらにスイッチの状況を確認しにわれわれのピットまで出向いてくれたのです」


いい話だなあ。

こうして、ドサ回りに身を落としていたマシンが、周囲の人の熱意にも支えられて、見事9位と完走を果たします。なんだか『ロッキー』みたいなストーリーですね。「ソレノイドのマスター・スイッチ」が何かわからない私のような人間でも感動できます(笑)。今の企業秘密の固まりみたいなF1では、夢想するのも難しい筋書きです。いい時代だなあ。

この号には11月6日(F1は10月23日)に行われた鈴鹿グランプリ(F2ですね)のレポートも載っているのですが、このレースに出ている「外人組」が豪華です。優勝したのはリカルド・パトレーゼ、エンジントラブルに泣いたけれど予選9位からごぼう抜きで首位に立ったのはディディエ・ピローニ、そして、その年の「F-2選手権6位とめざましい成績を残した“ケケ”ロズベルグ」(レースは予選3位だったけれど、決勝はリタイア)。みんな若かった。


少し遡りますが、77年11-1号はこのタイレルが表紙になっています。ただし、フロントはまだスポーツカーノーズです。記事には「マシン自体はexヒーローズ・タイレルであるが、小島エンジニアリングを経てメイリツ・レーシングが購入したもの」とあります。小島も関係していたのか。