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2012年9月17日月曜日

ウルフWR1/ケケ・ロズベルグ/1978/ミニチャンプス



1978年に参戦したケケ・ロズベルグのモデルです。

ケケはこの年、第3戦の南アフリカGPでセオドールからF1デビュー。セオドールから4戦出走し、第8戦のスウェーデンGPからはATSで3戦、そして第11戦の西ドイツGPからの4戦はウルフで参戦します。さらに最後の2戦はATSに戻っています。

というわけで、このミニカーは、西ドイツGP(10位)、オーストリアGP(11位)、オランダGP(リタイア)、イタリアGP(リタイア)のどれかのようです。

とりあえず最上位の西ドイツGPの話が載ったオートスポーツ1978年10-1号を見てみます。ケケは予選19位。「ケケはウルフWR1で予選通過」と本文中の見出しにもなっていました。

「ケケ・ロズベルクがついに予選を通過した。マシンはごく最近にテディ・イップが買い入れたウルフWR1である。乗り慣れないマシンでこの成績は上じょうといいたい。少なくとも20番手のブランビラよりはいい出来だったのだから……。」

ケケに対する好感度の高さがうかがわれる文章です。レースの結果に関してもそれは共通しています。

「ロズベルグが2周めのピットインにもかかわらず、10位とよく健闘してくれた。」

好意的なのは、当時から彼の才能が評価されていたからですかね。


2012年8月10日金曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/ミニチャンプス


ミニチャンプスのウルフWR1は、以前、アルゼンチンGPモデルを紹介したことがありますが、こちらは日本GPモデル。アルゼンチンGPは1977年の初戦(本戦は1月9日)、日本GPは最終戦(10月23日)になります。

2台を並べてはっきりわかる違いはエンジン上のカウルですかね。日本GPにはカウルがついていて、そこに田宮模型のデカールが貼られています。


予選は6位。オートテクニック1977年12月号のレースポートより。

「富士は初めてのウルフWRは貴重なセッティング時間をエンジンとミッションのトラブルで損失,ようやく1分13秒15としたのは内容を考えれば上々の出来であった.」

ちなみにポールポジションはアンドレッティの1分12秒23です。

シェクターはスタートに成功、ハントに続いて一気に2位を獲得します。その後も2位争いを続けます。

「しかし43周目にシェクターは耐えきれない操縦性に業を煮やし,ピットでタイヤとリアウイング調整.ために大きく遅れるがその後俊足ぶりを見せ“1分14秒30”の最速ラップを71周目に樹立する.」

結果は10位。とはいえ初挑戦のこの年、ドライバーズランキングで2位に入ります。コンストラクターズランキング4位。ドライバー1人のチームとしてはかなり優秀な成績ですよね。

2012年7月28日土曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/YAXON


前にミニチャンプスとエーダイのモデルを紹介したウルフWR1ですが、今度は、YAXONのモデルです。

ミニチャンプスの項を書くときに本棚から引っ張り出したオートテクニック1977年3月号のレースレポートに、WR1とは関係がないんだけど、ちょっと気になる一文がありました。


「2年前の前回GP以降,アルゼンチンは軍事政権下にあり,けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではないのだが,ラテンアメリカの人々は政治とプロスポーツを両立させ2年ぶりのF1GPレースをやってのけた.ためにいつものGPシーンには見られぬ,軽機関銃と鉄かぶとの“カーキ色”が目立っていた.」

「“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ですか。どういう時代なんだろう。

オートスポーツ1977年3-15号の巻頭グラビアを開くと、“カーキ色”が目立つ写真が載っていました。シェクターとレースクイーン(?)の後ろに兵士がずらり並んでいます。


レースレポートに、オートテクニック以上に詳しい記述がありました。見出しもずばり「戒厳令下のグランプリ・レース」。ちょっと長いですが、レースを取り巻く様子がわかるので引用します。

「まず、“舞台”の説明からはじめよう。これからして、他のいかなるグランプリとも異なっているからである。“はなし”はブエノスアイレス空港から始まった。ここは2年前と変らず、依然として仮建築のようなお粗末な建物だが、これはすぐに慣れてしまう。アルゼンチンでは、こんなことはごくあたり前のことなのだ。

 すぐに慣れるわけにはいかないのが、いたるところに見かける兵隊だ。それも、数百人という数である。どこへ行っても、軍隊を見かけることができる。彼らは完全武装し、軍服は破れてきたなく、不気味な弾帯を肩からぶら下げている。彼らをちらっと見ると,彼らもじっとわれわれを注視する。すこし離れたところにはトラックが停車していて、数10人の兵隊が武器をもって乗り込んでいる。さらにそのうしろのほうには警察のパトロール・カーが2台。それぞれ中には機関銃をもった4人の警官が同じように緊張した顔つきで構えている。すぐにでも行動に移れるように待機しているのだ。これが全部われわれのためだから驚く。

 われわれが2台のバスに分乗して空港を離れるとパトカーはサイレンを鳴らし、1台はバスの前方を走り、残りの1台は後方から護衛し、他の車両はすべて通行禁止となる。こうして、われわれは厳重に護衛されて市の中心部まで25kmのドライブをしたのだ。ロンドンからブエノスアイレスまで21時間のフライトではじゅうぶんな睡眠がとれなかったが、このバスのなかでも眠るどころではない。前と後ろにサイレンの音が鳴り響き、まるで“護送”されるような雰囲気であり、まったくグランプリ・レースとは異質の雰囲気といわねばならない。

 これほど厳重な護衛が実施されたのは、反政府ゲリラ活動に対する警戒からである。彼らはひんぱんに事件をひきおこしており、グランプリの機会に騒乱が発生する可能性があるし、そうなればわれわれは標的になるのだという。

 ホテルの中ではそれほど大げさなことはなく、大した問題はなかったが、そこを一歩出てサーキットへ行くと、またもや大変な事態である。2500人もの警官が警備に当たっていて、いたるところでバッグの中味を調べ、通行許可バッジを確認し、身分証明書の提示を求める。はじめのうちは、われわれもおもしろがっていたが、しだいにめんどうになり、最後にはひどい苦痛になってきた。その検査の時、私は大事なフィルムを1本没収されてしまったのだ。アルゼンチン軍隊の立派な任務遂行のありさまを写したのが彼らの気に入らなかったらしい。まったく常識では考えられない。

 私は、一体何のためにはるばるアルゼンチンまでやってきたのだろうか、と考え込んでしまった。」


「エビータ」の夫、ファン・ペロン大統領が死んだのが1974年7月。その後、ペロンの2人目の奥さんイザベルが世界初の女性大統領になるわけですが、1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラがクーデターを起こし、政権を握ります。オートテクニックには「2年前の前回GP」、オートスポーツにも「ここは2年前と変らず」という記述があるように、前年のアルゼンチンGPは中止されているのですが、なるほど、それどころではなかったのですね。

ちなみにビデラは81年まで大統領を続けますが、1977年はまさに「汚い戦争」が始まった直後にあたります。

「汚い戦争(スペイン語: Guerra Sucia 英語: Dirty War)とは、1976年から1983年にかけてアルゼンチンのホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla)将軍率いる軍事政権によってアルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為を指す言葉である。」
(ウィキペディアより)

「アルゼンチンを知るための54章」(明石書店)には、ビデラ政権の最優先課題は「治安回復と対ゲリラ戦であった」と書かれています。

「徹底的に左派系の武装勢力と戦い、掃討作戦を実施した。ゲリラは一人ひとりが一つの細胞組織として行動していたため、ゲリラと断定した者だけではなく何らかの形で関係していた者も取り締まりの対象となり、結果的に一万人以上がいまだに行方不明になっている(人権団体は三万人以上と推定している)。」

こういう文章を読むと、当時のアルゼンチンが本当に「けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ことが、よくわかります。

「瞳は静かに」という映画は、まさに1977年のアルゼンチンが舞台。当時の恐ろしい状況が物静かに語られます。

2012年6月28日木曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/エーダイ




エーダイのF1シリーズです。デカールが剥がれ始めています(笑)

オートスポーツ1977年6-15日号の連載「F-1マシン・ストーリー」の第六回でウルフWR1が取り上げられていました。筆者は望月修氏。個人的に興味深かったのはノーズのくだりです。

「76年も終わりに近づいた11日9日、ロンドンのロイヤル・ランカスター・ホテルで発表された初代モデルは、フロントウイングとスポーツカーノーズを組合わせた点からも、ボディ・サイドの大きな曲面など、308シリーズとの共通性を感じさせる。」

「308 シリーズとの共通性…」というくだりは、WR1をデザインしたのが、ヘスケス308シリーズで実績を上げたデザイナー、ハーベイ・ポストレスウェイトだっ たからです。ヘスケス308、そしてそれを改良したウイリアムズFW05は、スポーツカーノーズの前にウイングをつけるという形状していました。発表時の WR1も同じスタイルを取っていました。

オートスポーツ1977年1-15号の表紙がまさに発表時のWR1です。「フロントウイングとスポーツカーノーズを組合わせ」ているのがわかります。


「延べ11時間におよぶ風洞実験」「そして、その数倍におよぶ時間を費やして、コンピューターによるデータ分析が行われた」

「ところが、シェイクダウン・テストでは、空気抵抗、ダウンフォースの両面で満足な結果が得られなかった。ノーズ部分の整形に関してはかなり気を配った積りのはず、実走行テストでは見事に期待を裏切られてしまった。フロントのダウンフォースが少なく、そのためアンダーステアに悩まされ、その対策にフロント・ ウィングの仰角を増すと、今度はスポーツカー・ノーズとの干渉で著しく空気抵抗を増してしまうのである。」

「タイレル007風のスポーツカー・ノーズはまったく無用の長物どころか、かえって有害であるとの結果になった。」

結局、WR1はスポーツカーノーズを取り去り、ウイングノーズでデビュー戦を迎えます。そして初レースで優勝を飾ります。

個 人的にはスポーツカーノーズのF1マシンが大好きなのですが、残念ながら「彼ら」はこのあたりでその役割を終えることになります。スポーツカーノーズの F1が最後に優勝したのは1976年イタリアGPのマーチ761(この話はミニチャンプスのマーチ761の項にも書きました)。1977年にはタイレル P34、サーティーズTS19、マーチ761B、ルノーRS01(たぶんオランダGPのみ)、コジマ009とかろうじて残っていましたが、1978年の ニューマシンにスポーツカーノーズのF1マシンはありませんでした。

2012年6月3日日曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/ミニチャンプス


アルゼンチンGPのウィナーです。チーム・ウルフがコンストラクターとしてF1に挑んだ初めてのレース。『F1全史1976-1980』によると「緒戦で優勝した例としては過去にメルセデスベンツ('54年)があるのみだ」そうです。

オーナーはカナダの石油王ウォルター・ウルフ。1976年に資金難に苦しむ「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」に共同オーナーという形で参加。チームの実権を握り、翌年、チーム名を「ウォルター・ウルフ・レーシング」と変更してF1に参戦します。

デザイナーは前年のウイリアムズFW05をデザインしたポストレスウェイト。ウイリアムズFW06のときに紹介しましたが、クリス・エモンに「ヤツの頭は雲の上なんだ」と非難されたポストレスウェイトです(笑)。

前年のマシンはエモンいわく「ひどいマシンだ。いや本当にひどい」そうですが、翌年のWR1はいきなり第1戦目で優勝を遂げます。

レース本戦は1月9日に開催されました。2012年は3月18日ですから、昔のF1関係者はずいぶん早くから働いていたんですね。

「シェクターのウルフがデビューを飾る! 荒れ模様の開幕戦,77年は群雄割拠か」

オートテクニック1977年3月号のレースレポートのタイトルです。

「いきなりダッシュしたブラバム加入のジョン・ワトソン,彼を抜き去ったチャンピオンのジェイムズ・ハント,そして終盤先頭に出たカルロス・パーチェ,いずれも相次ぐ交代劇のすえシェクターに勝ちを譲った.53周のこのレース,ウイナーのシェクターは48周から6周しか1位を走らなかった.」

そんなレースだけにジョディ・シェクターにとっても予想外の勝利だった様子。

「“もしレース前に,キミが優勝候補の最右翼だよと言われたとしても,私はとっても信ずる気はなかったし,まったくこんなことになろうとはこれっぽちも考えていなかった”──ジョディ・シェクターのウルフWR1初優勝の弁である.」

実際、緒戦の勝利は「ラッキーだった」という声も多かったようです。しかし77年のコンストラクターズランキングは4位、ドライバーズランキングは2位。6戦のモナコGP、16戦のカナダGPでも優勝とシーズン通して好成績を挙げます。

ちなみにチームから離脱したフランク・ウィリアムズは、新たに「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を立ち上げマーチ761でF1に挑みますが、この年のポイントはゼロ。テールエンダー脱出は、FW06で挑む1978年シーズンまで持ち越されます。