2012年5月30日水曜日

アローズA2/リカルド・パトレーゼ/1979/ミニチャンプス



 アローズA2は個人的にかなり好きなマシンです。理由は単純。他のどんなマシンにも似ていないから。

1978年のロータス79の大成功の後、各チームはさまざまなアプローチでグランドエフェクトカーを投入します。そんななか、満を持して登場したのがア ローズA2。ロータスの復活に関わり、シャドウにも初優勝をもたらしたデザイナー、トニー・サウスゲートの手によるこのマシンは、本当にユニークなボディ を持っていました。

「人間魚雷“回天”を連想させるユニークなシェイプ」

これはオートスポーツ1979年9-1号の巻頭グラビアのキャプション。改めて「回天」でググってみましたが、先端が丸みを帯びているのが、両者の共通点ですね。

A2が初めてレースに参戦したのはフランスGPです。オートスポーツではレース・レポートのグラビアの後に、カラー1ページで3台の初登場マシンの解説記事を載せているます。

「後半期戦に備え、各チームともマシンの“改良”を急いでいたが、ディジョンのガレージに現われモディファイド・マシンを見てみよう」

こうして紹介されるのはマクラーレンM28CとブラバムBT48、そしてアローズA2
です。

「なかでも注目されるのは、“ステージ・ツー”グランド・エフェクト・カーと呼ばれるニュー・アローズA2である。フロント・サスペンションを包む フェアリング・スポイラー・システム、エンジンとギヤボックスに角度をもたせてウイング効果を促進させるなどユニークなシステムとはーー。」

そのユニークなシステムを解説するために5枚の写真を使っています。マクラーレンとブラバムを抑えての主役扱いとはすごい。

以下はフランスGPのレポート記事。

「奇怪なスタイリングに驚くことはない。最新の“進んだ技術”を採用してパドックに現れるのにはもう慣れてきた。それにしてもニュー・マシンをセッティングするには予選の時間ではあまりにも短すぎた。『ラップ毎がこの車についての勉強だ。でもレース前に学び終えるには時間が少なすぎる』とヨッヘン・ マス。」

彼が予選22位、パトレーゼは21位でした。そして本戦もマスが15位、パトレーゼが14位と、続いてフィニッシュ。



結局、シーズンが終わってもA2についての「勉強」は終わりませんでした。アローズA2がポイントを獲得したレースは第10戦のドイツGPと第12戦のオラン ダGPのみで、順位も6位。ドライバーはどちらもヨッヘン・マスです。パトレーゼはA2でポイントを獲得することはできませんでした。

後年書かれた『F1全史1976-1980』の「“ステージ・ツー”グランド・エフェクト・カー」に対する評価は辛辣です。

「弾丸型ノーズ、エンジン/ギヤボックスをはね上げて搭載、そして何ともユニークなスタイルを持つが、空力バランスが悪く失敗に終わる」


2012年5月28日月曜日

タイレル007/高橋国光/1977/スパーク


1970年代のF1は、ワークスチームの古いマシンをプライベートチームが購入し、地元のレースに参戦するということがありました。70年代は、1つのマシンを改良しながら数年使うというのが当たり前だったので、こういうことが可能だったのですね。

これもその1台。1977年の日本GPのために、日本のプライベーターが改良したタイレル007です。まず76年のF1 in Japanのためにヒーローズレーシングが購入し、星野一義がドライブ。翌年、メイリツ・レーシングがこれを買い取って高橋国光のドライブで参戦しました。

成績は予選22位、決勝は9位。3年前のモデルで9位というのは大健闘ですよね。ちなみに前年の星野一義と異なり、ノーズはスポーツカーノーズからウイングに戻しています。スポーツカーノーズのマシンが最後に勝ったのは1976年のマーチ761(第13戦のイタリアGP)が最後。そういう意味で、このマシンが前年のスポーツカーノーズをやめ、ウイングを選んだのも、スポーツカーノーズの終焉を象徴しているような気がします(個人的にスポーツカーノーズのマシンがスキなんですよ)。

1977年の「AUTO SPORT」12ー15日号に、このマシンにスポットを当てた記事が掲載されています。執筆者はたてうちただし氏。

「メイリツ・レーシングのグランプリ挑戦記/決勝日の朝に最後のネズミをつかまえた」というタイトルの記事によると、このマシンは「今日は関東、明日は関西と老いの身にムチ打って展示場から展示場に流れていた」そうです。「F1が○○にやってくる」みたいな客寄せイベントの目玉に使われていたんでしょうね。それが急遽、F1に参戦することが決定。実際にテストランを始めたのは9月になってからだとか。

タイトルにある「ネズミ」というのは、これだけではわかりづらいですけど、セッティングがうまくいかない原因のことです。肝心なところでエンジンがバラつく。一つ一つ問題を解決していったチームが、最後の一つが「ソレノイドのマスター・スイッチ」だということを発見したのは決勝の朝のこと。もう時間がありません。そのとき、たてうち氏がとった選択は、タイレルのピットへ行って、ケン・タイレルに「わけてもらえないか」と相談するというものでした。

「彼は、もうすぐレースが始まるというのに、快よくわれわれの注文に応じてくれ、わざわざパドックまでもどってパーツを探してきてくれ、さらにスイッチの状況を確認しにわれわれのピットまで出向いてくれたのです」


いい話だなあ。

こうして、ドサ回りに身を落としていたマシンが、周囲の人の熱意にも支えられて、見事9位と完走を果たします。なんだか『ロッキー』みたいなストーリーですね。「ソレノイドのマスター・スイッチ」が何かわからない私のような人間でも感動できます(笑)。今の企業秘密の固まりみたいなF1では、夢想するのも難しい筋書きです。いい時代だなあ。

この号には11月6日(F1は10月23日)に行われた鈴鹿グランプリ(F2ですね)のレポートも載っているのですが、このレースに出ている「外人組」が豪華です。優勝したのはリカルド・パトレーゼ、エンジントラブルに泣いたけれど予選9位からごぼう抜きで首位に立ったのはディディエ・ピローニ、そして、その年の「F-2選手権6位とめざましい成績を残した“ケケ”ロズベルグ」(レースは予選3位だったけれど、決勝はリタイア)。みんな若かった。


少し遡りますが、77年11-1号はこのタイレルが表紙になっています。ただし、フロントはまだスポーツカーノーズです。記事には「マシン自体はexヒーローズ・タイレルであるが、小島エンジニアリングを経てメイリツ・レーシングが購入したもの」とあります。小島も関係していたのか。


2012年5月26日土曜日

ルノーRS01/ジャン・ピエール・ジャブイーユ/1977/カルツォ


エーダイのRS01を暫定的に「オランダGP」モデルと断定しましたが、こちらはメーカーが正式に「DUTCH G.P.」と宣言しているモデルです。QuartzoのルノーRS01。

成績を見ると、予選は前走の21位から10位へとジャンプアップしています。

「オートテクニック」10月号を開いてオランダGPの記事を見てみます。

「10位には西ドイツとオーストリアを欠席し,インレットマニホールド,エキゾーストシステム,燃料ミクスチャーなどいろいろ改善を加えてきたルノーRS10が飛び込んできた.ジャン・ピエール・ジャボイユは初日こそこの改善以前のマイナートラブルで遅かったが,2日目には3秒も一気に削り1分20秒13をマーク.堂々2戦目にしてターボF1は予選10位を奪い,チームは喜んでワインを抜いた.」

やっぱりオートテクニックは昔から技術志向ですね。本戦に関してはこんな感じです。

「ジャボイユのルノーターボは6位と善戦を続け,ひょっとしたら初入賞もやってのけるかもと思われはじめた矢先,39周したところでリヤサスペンション破損というエンジンではないフレーム関係のトラブルにより,リタイアとなった.大いに惜しまれるジャボイユの健闘であったし,今後の希望もかなり明るくなったと評価してよいだろう.」

せっかくなのでオートスポーツも見てみます。1977年11-1号です。

「ルノー・ターボが再びこのレースから、カムバックした。エア・インレットの形状をモディファイしたことにより、6気筒エンジンにこれまでより均一化したエアミックスを送り込むことができ、デビュー戦で発生したターボチャージャー問題に対処している。加えて、より耐久性のあるターボ・ブレード(前のやつは、シルバーストーンでオーバーヒートしてしまった)が組み込まれている。ドライブシャフト・アップライトにも新設計の部品が使われているが、それでもプラクティス初日が終わって、J.P.ジャブイーユが駆るルノー・ターボは、予選結果表の下から1番めであった。最初のプラクティス・セッションが始まってすぐ、ターボ・システムの横にあるインテークが石を吸い込んで、インペラー・ブレードを破損。第2セッションでは、ほんの2、3周したところでターボ・ラジエーターの内部の部品がエンジンに落ち込んで、ブローアップ。まったくどうしようもなかった。が、どうやら土曜日のセッションは、思いどおり進んだようで、最終アタックで10番めのタイムを計時。だがジャブイーユにとしては、ミシュラン・タイヤのハンドリングに不満のようで、高速コーナーではリアが非情に不安定になるといっていた。」

あれれ、オートスポーツも技術志向でした。やはり初のターボマシンとなると、技術の話にならざるをえないのでしょうか。それにしても予選10位にしては文章が長い。それだけ関心度が高かったんでしょうね。一方で本戦はあっさり。

「一時は6位と健闘を見せたルノー・ターボのジャブイーユも、サスペンションを破損して次のレースに夢を託す。」

夢を託したイタリアGPはオランダGPほどはうまくいかなかったのですが。


2012年5月24日木曜日

マルティニMk23/ルネ・アルヌー/1978年/Racing Models


ここ1年、個人的に「見てはいけない」サイトNo.1はRacing Modelsです。見るたびに信じられないマシンが掲載されているからです(笑)

これもその一台。1978年のF1「マルティニMk23」。いや、びっくりしました。おもわず反射的に購入ボタンを押してしまいました。

マルティニは75年、77年のF2チャンピオンチーム。チームドライバーで、77年のF2チャンピオンだったルネ・アルヌーを起用してこの年、F1に乗り込んできました。

オートスポーツ1978年3-15号では表紙にもなっています。



その号に載ったマルティニMk23についての解説記事より。

「マルティニMk23は、コスワースDFV、ヒューランドFGAギヤボックス、グッドイヤー・タイヤを使用したスタンダード・F-1キットであり、デザインもきわめてコンペティションで、保守的といってもいいだろう。」

デザイナーのティコ・マルティニのコメントが素晴らしい。

「このマシンの重量はまだ計測していないが、それほどひどいオーバーウェイトにはなっていないはずだ。まあ、多少重いマシンになっていても、むしろ頑丈なマシンということで初挑戦には好都合というものだ」

発表するまでに重量を計測していない。のどかで、いい時代ですね(笑)。

まあ、こんなのんびりした姿勢のせいかどうかはわかりませんが、マルティニは結局、シーズン後半には撤退してしまいます。『F1全史 1976-1980』によれば、マルティニが参戦したのは、モナコGP(予選落ち)、ベルギーGP(9位)、フランスGP(14位)、ドイツGP(予選落ち)、オーストリアGP(9位)と5戦だけなんですね。チーム撤退後、アルヌーはサーティーズへ移籍します。その話はこちらでも書いています。

2012年5月23日水曜日

ブラバムBT45B/ジョン・ワトソン/1977/エーダイ


ブラバムBT45Bは、前年投入したBT45の改良型。エンジンはアルファロメオです。パワーが売りでしたが、燃費が悪いのが欠点でした。

ドライバーズランキングでジョン・ワトソンは13位。ポイントを獲得したのは第3戦の南アフリカGPが6位、第8戦スウェーデンGPが5位、第9戦フランスGPが2位。

調べてみると、このフランスGPはかなりドラマティックなレースだったようです。

予選3位だったワトソンは、5周目に予選1位のハントを抜いてトップに立ちます。これをロータス78のマリオ・アンドレッティが追いかけます。以下はオートスポーツ1977年9-1号より。

「ワトソンはしだいにリードを広げていく。アンドレッティのばあいは、ハントをぬくのはワトソンほど容易ではなかった。だが、アンドレッティも18周め、ハントがきついヘアピンのところでギヤ・シフトをミスして一瞬ふらついたスキに、これをぬいて2位に上がった。」

「アンドレッティとトップのワトソンとの差は7秒と開いている。が、彼はこの差をちぢめはじめた。40周めにはその差は4.8秒にちぢまり、50周めにはとうとう1秒。」

レースは80周です。最後の10周はアンドレッティがぎりぎりで抜けないという展開が続きます。そして最終ラップも半周を過ぎたときです。

「ワトソンのブラバムが突然おかしくなった。エンジン音がばらつき、とぎれとぎれになった。明らかに“ガス欠”だ。同時にコーナーのところで大きくスライドした。彼は車を立て直し、燃料ポンプのスイッチを入れると、エンジンは蘇生し、正常な“力”を取りもどしたが、すでにアンドレッティのロータスがアウトサイドに並んでいた。」

そしてアンドレッティが逆転で1位。ワトソンのブラバムBT45Bは2位でレースを終えます。

やっぱり燃費って大切なんですね。

オートスポーツ1977年9-1号の表紙はコジマ009。そういえば京商がコジマ009のミニカーを発売すると発表しましたね。楽しみです。







2012年5月22日火曜日

シャドウDN8/アラン・ジョーンズ/1977/スパーク

スパークから出たシャドウDN8。アラン・ジョーンズのドライブで、1977年のオーストリアGPで優勝しています。この勝利はアラン・ジョーンズにとっても、シャドウ・レーシング・カーズにとっても、F1で初めての(シャドウにとっては唯一の)勝利でした。

予選14位からスタートしたジョーンズは徐々に順位を上げ、16周めに2位へ。ただなかなかトップを走るハントとの差は縮まりません。ですが、残りあと11周というところで、ハントのマクラーレンM26がエンジントラブル。ジョーンズはトップに躍り出ます。

オートスポーツ1977年10-15号のレースレポートよりアラン・ジョーンズのコメント。



「前を走っていたハントがリタイアし、自分がトップになったのを知って、正直いってボクはパニックにおちいった。何しろ生まれて初めての経験なのだ。それからあとは、ただエンジンがブローアップしないように、タイヤが外れ落ちないように、と祈りながら走った」


1980年にはシリーズチャンピオンを獲得するジョーンズですが、まだ初々しいですね。

この号では「F1マシン・ヒストリー」という記事でもシャドウDN8を取り上げています。

「オーストリアで勝ったマシンはDN8の改良型である。(中略)DN8改の主な変更点は、オイルクーラーのマウント位置、およびボディのサイド・カウルの形状変更、さらにエンジン・カウルの取り外しである。」「以上の改善により、空気抵抗を著しく減少し、空力的特性も大いに向上した。その結果、走行性能向上に格段の進歩が見られた。」

記事には77年代前半のモデルと優勝したマシンを上下に並べて比較していますが、たしかに、1)オイルクーラーがフロントに移動し、2)サイドのカウルがスッキリしていて、3)エンジン上のカウルがなくなっています。これで空気抵抗が減少し、重量も軽くなったと記事は解説しています。

「その成果がDN8改で、曲がりなりにもF-1サーカスの立役者たる資格を獲得することになった」

ただスパークのミニカーを見ると、記事通り、オイルクーラーはフロントにあり、サイドのカウルも以前よりスッキリしていますが、エンジン上のカウルはついています。オートスポーツの解説記事の写真は、エンジンがむき出しのまま。どういうことだろうと思って、もう一度、オーストリアGPのレースレポートを見ると、そこに載っているDN8の写真は、スパークと同じようにエンジン上にカウルがついていました。

なぜこういうことが起きたか、同じ仕事をしているので思いつくことがないわけではありませんが、インターネットがない時代のことを今からあれこれいうのも ちょっと違うよなと年寄りなので思ったりします。そういえば、新人の頃、上司にファックスがなかった時代のことを語られて「そんなことを言われてもな」と 思ったのを思い出しました。ちなみにその上司は新人時代、コピーがなかった時代のことを語られて同じことを思ったそうです(笑)。

【追記】オートスポーツ1977年5-1号の表紙が改良前のDN8でした。これと今回のミニカーを比べると、「オイルクーラーのマウント位置、およびボディのサイド・カウルの形状変更」はわかりやすいと思います。


2012年5月21日月曜日

マクラーレンM29/アラン・プロスト/1980/ソリド

 

ソリドから出ている「ALAIN PROST COLLECTION」の中の1台。さすがはフランスブランド、という企画ですね。

1980年はプロストがF1にデビューした年。本人の回顧録も載っています。「マクラーレンM29にはいい思い出と後悔が入り交じっている」そうです。

結果を見ると、デビュー戦のアルゼンチンGPで6位、第2戦のブラジルGPでは5位に入賞しているのに、第3戦の南アフリカGPでは予選不通過。第4戦のロングビーチGPには出走していません。南アフリカGPで何があったのか。

以下はオートスポーツ1980年5-1号から。


「マクラーレン・チームは、ここキャラミでは天中殺とでもいうべきほど不運だった。水曜日の公開練習中にアラン・プロストは本番車を台無しにしてしまう。」

「コースを外れてバリアへ激突! モノコック前部にひどいダメージを受け、プロスト自身も左足に裂傷を負った。それでも彼は旧型のスペアカー(オリジナル仕様のM29)に乗り換え、1回目の予選に臨んだ。」

「こんどは“エッセンス”ベンドでリア・サスペンションが壊れてコーナーを飛びだし、再びバリアへ突っ込んだ。」

「車のほうは2回めの予選に備えて修理できたが、プロストの左手首の骨が折れており、決勝レース出場は不可能となってしまったうえ、次のロングビーチのUSウエスト・グランプリの出場もむずかしいようだ。」

「『事故後すごく痛んで、夜にはいって腫れ上がった。左手ではもう何もできない状態ですよ』とプロスト。金曜日にパドックへ現れたときには、左手は固定され、包帯で吊って、見物側にまわった。」

「天中殺」という単語が時代を感じさせますが、なるほど、これでは「いい思い出と後悔が入り交じり」ますね。

結局、1980年のプロストのドライバーズランキングは15位。順位はブラジルGPの5位が最高でした。

2012年5月20日日曜日

ルノーRS01/ジャン・ピエール・ジャブイーユ/1977/エーダイ



1980年代にF1を席巻するターボエンジンのさきがけですね。

1976年にテストカーを走らせたルノーは、1977年にF1に参戦します。3リッターエンジン全盛期に、1.5リッターターボでの挑戦でした。

この年は第10戦イギリスGP、第13戦オランダGP、第14戦イタリアGP、第15戦アメリカGP、第16戦カナダGPと計5レースにエントリーしています。ただポイントは獲得できませんでした。

ミニカーはエーダイグリップ。メイド・イン・ジャパンです。漢字で書くと「永大」。プラモデルメーカーですね。1/43のF1モデルをいくつか出しています。

さて、このモデルは、参戦した5つのGPのうち、どのレースのマシンでしょう。昔のミニカーなので、GP名などは書いてありませんが、この年のルノーはフロントをウイングノーズとスポーツカーノーズで使い分けているので、少しは絞れるかもしれない。そう考えて、ちょっと調べてみました。ついでに予選/本戦の結果も。参照したのは当時のオートスポーツとオートテクニック、そして『F1全史1976-1980』です。

イギリスGPは、予選21位、本戦は16周リタイア。ウイングノーズです。
オランダGPは、予選10位、本戦は39周リタイア。スポーツカーノーズ。
イタリアGPは、予選20位、本戦は23周リタイア。ウイングノーズ。
アメリカGPは、予選14位、本戦は30周リタイア。ウイングノーズでした。
カナダGPは、予選落ち。フロントの形状は確定できませんでした。

話題性抜群のマシンだけあって、どのGPレポートでも必ずルノーの写真は載っていたのですが、予選落ちしたカナダGPだけは、当時のオートスポーツにもオートテクニックにも写真がありません。次のレースが日本GPだったので、カナダGPに割けるページ数が少なく、予選落ちのマシンを載せる余裕がなかったのかな。

とはいえ、このタイミングでスポーツカーノーズに戻すというのも考えづらいので、ここは暫定的にオランダGPモデルということにしてしまいましょう(笑)。

※追記 先日、ジョーホンダ写真集の1冊「TURBO CARS 1977-1983」を買ったのですが、ここにカナダGPの写真も載っていました。なんと、スポーツカーノーズでした。というわけで、このエーダイのRS01は「オランダGPモデル」とは言い切れなくなってしまいました。さてどちらなんでしょうか?

2012年5月19日土曜日

フェラーリ312T4/ジョディ・シェクター/1979/YAXON

YAXONのフェラーリ312T4です。

1979年のフェラーリはコンストラクターズランキングの1位と、ドライバーズランキングの1、2位を独占します。優勝回数は14戦中6勝。データを見ると圧勝というイメージですが、コンストラクターズで2位になったウイリアムズが第9戦のイギリスGPから第12戦のオランダGPまでの4連勝を含む5勝をあげていますので、印象としては「ウイリアムズ躍進の年」だったという記憶があります。

このモデル、カーナンバーは11なので、この年のドライバーズチャンピオン、ジョディ・シェクターのマシンです。312T4は、他にマテルとミニチャンプスでビルヌーブのモデルを持っています。

他の2台と比べると、「あれれ」という出来なんですが、こういう素朴さがいいですね。なんとなく子どもが描いた「僕が考えるF1マシン」みたいな感じで。

2012年5月18日金曜日

サーテースTS20/ルネ・アルヌー/1978年/Racing Models



以前、ヘスケス308Eを購入した「Racing Models」から、また1台、買ってしまいました。サーティースTS20。本体は74ポンドで、送料が10ポンド。計84ポンドです。実際の請求金額は1万474円でした。

サーティースTS20は1978年のマシン。TS19で3シーズン(!)戦ったサーティーズですが、ここでスポーツカーノーズからウィングノーズへと転進します。

1978年7-1号のオートスポーツに紹介記事が載っていました。「F-1最新マシン情報」という記事で、リジェJS-9、ウルフWR5と同じ記事の中で紹介されています。


ちなみにTS20の紹介記事タイトルも、「ウィング・ノーズを採用したサーティーズTS20」です。やっぱりスポーツカーノーズをやめたところがポイントか(笑)。この記事によると、このマシンが投入されたのはモナコGPみたいですね。

記事にはジョン・サーティーズの以下のようなコメントが掲載されています。

「最も大きな変更点は空力デザインだ。オイルクーラーとラジエーターのアレンジを変え、ノーズ先端を細いウエッジ型として、フロント・ウィングを配置した。オイルクーラーはノーズの先端に、ラジエーターはボディの後端に埋め込んだ。前面投影面積の減少と車重配分を変えるためであった。ホイールベース、トレッドもうんと広げられ、サスペンション・ジオメトリーも変更されている。これで最新のグッドイヤーにもフィットして、性能も向上するはずである」
そして、こう言い切っています。

「TS20はそう遠くない時期に、ワールド・チャンピオンシップを狙うことができるだろう。シェイクダウン・テストも順調に終え、デビュー戦に何も問題はないはずだ」
ただし現実は問題だらけでした。モナコGPは予選不通過。最高位はオーストリアGPの6位(ドライバーはブランビラ)。この1ポイントを最後に、チーム・サーティーズはこの年でF1から撤退することになります。

さて、ミニカーのドライバー名を見るとルネ・アルヌーとなっています。この年、マルティニでF1デビューを果たしたアルヌーですが、マルティニが第13戦オランダGPを最後に撤退したため、第15戦アメリカGP、第16戦カナダGPはサーティースから参戦しているのです。というわけで、これはそのどちらかのモデル、ということでしょう。

オートスポーツ1978年11-15号を見ると、イタリアGP(ロニー・ピーターソンが事故死したレースです)のレポートの中に、アルヌーがサーティーズのドライバーになった経緯が書かれていました。「ジェフのパドック情報」というコラムです。


●サーティーズに乗るアルヌー
 ヨーロッパF2チャンピオンのルネ・アルヌーはことし30歳。自分の所属していたマルティニのF-1チームが、グランプリからの引退を発表して以来、その動静が注目されていたが、どうやらシーズン末の残された2レース(アメリカとカナダ)をサーティーズのチームから出場することが決定した。
 ルネ・アルヌーは、オランダGPで負傷したルパート・キーガンの代わりに登場するわけだが、モンツアで重傷を負ったブランビラのほうの穴を誰がうめることになるかについては、まだサーティーズの側から明らかにされていない。
 チーム・サーティーズの今シーズンにおける成績は決して満足のゆくものではないが、アルヌーにしてみれば願ってもないチャンスといえるだろう。これでクォリファイを通過してアメリカかカナダのどちらかでいい成績をあげることが出来れば、来シーズンの見通しも悪くはないはずだ。


この2戦、アルヌーはアメリカGPで完走、カナダGPではリタイアという結果でした。オートスポーツを眺めてみても、予選結果でちょっと触れられている程度ですね。

11列目にはサーティーズTS20に乗るルネ・アルヌーがついたが、彼は最終セッションの中ごろにシケインからとび出し、ステアリング・アームを曲げてしまい、その後はまったく走れなかった(12-1号)※アメリカGP

8列めにはほとんどノートラブルでプラクティスを終えたエンサインN177のデレック・ダリー。そのとなりはサーティーズTS20のルネ・アルヌー。彼はクォリファイ用タイヤの配給は受けられなかったが、無事16番手で予選を通過した。しかし、チームメイトのベッペ・ガビアーニは、また予選を通過できなかった。(12-15号)
※カナダGP

「予選途中で走れなくなった」とか「チームメイトは予選通過できなかった」とかいう文章の裏側に、アルヌーの才能を感じさようとしている筆者の意図が感じられる、なんていうのはうがちすぎでしょうか。

話はそれますが、前に引用した「サーティーズに乗るアルヌー」という小記事の、まとめがなかなか印象的でした。ケガをしてシートをアルヌーに譲らなければならなかったキーガンのコメントがレースの厳しさを感じさせます。

 キーガンはいぜんとしてギプスのお世話になっているが、モンツアにその元気な姿を見せている。病院を退院して間もない彼なのだが、アメリカへも足をのばしての観戦を予定しているらしい。彼はそのへんのところを次のように説明してくれる。「なにしろこの時期には、何はともあれ顔を出していなくちゃ駄目なんだよ。来シーズンへの情報をあれいれ手に入れるためなんだけど、それさえ出来ないんだったら、もうこの世界とはオサラバしたほうがいいだろうね……」若い彼らしい発言に拍手を送ろうではないか。

営業は大事、ということですね。ちなみにこの年、彼は22歳。ただ残念なことに、翌年、キーガンの座るシートはありませんでした。厳しいなあ。

2012年5月17日木曜日

アルファロメオ179/?/1980/ポリスティル


アルファロメオ179。1980年のF1マシンです。ポリスティルの1/41モデル。

基本的には、こういう古いミニカーを集めるのが好きです。レースまでしっかり想定して再現している最新のモデルもいいですが、思い切りよくデフォルメしていて、グランプリどころかドライバーだって考えてないんじゃないかというような昔のミニカーも、オモチャらしくていいんじゃないかと。

このアルファロメオはまさにその典型ですね。誰のマシンかわからないのです(笑)。

フロントノーズに描かれているナンバーは22です。これは第8戦のイギリスGPまでならパトリック・デパイユのマシンのナンバーなのですが、デパイユは第9戦の西ドイツGP前のテストラン中に事故死しています。その後、第12戦のイタリアGPではビットリオ・ブランビラが、第14戦のアメリカGPではエリオ・デ・チェザリスが、それぞれナンバー22のマシンに乗っている。つまり、そのどちらかという可能性もあるわけです。

さらに悩ましいのはボディ横には「23」というナンバーが書かれていること。


23だとすると、これはブルーノ・ジャコメリのマシンということになります。

さて、これは誰のマシンなのでしょうか。

1980年のアルファロメオはコンストラクターズランキングで11位。ドライバーズランキングはジャコメリが17位と冴えませんが、最終戦のアメリカGPでは見事予選1位を獲得しています。以下はオートスポーツ1980年12-1号の「USイースト・グランプリ」レポートより。


「今回の予選で驚いたのはB.ジャコメリ(アルファロメオ179)の活躍だった。チーム内では彼の評判はけしてよいものではないといわれているが、彼は心に期するものを秘めてワトキンスグレンにやってきた。1日めにベスト・タイムを出し、2日めも抜群のタイム(昨年のポール・タイムより2秒近くも速い)を出して2番手以下に1秒近くの差をつけた。『すべてが同時にうまくいったのは今回が初めてだ』とブルーノ。いまや彼に望まれるのは、レースでフィニッシュすることである。」

スタートもうまくいきます。

「スタートはジャコメリのものだった。赤と白のマルボロ・カラーに彩られたアルファロメオ179がまずリードを奪う。」

「ジャコメリのアルファロメオは、ソフトなBタイヤをはかせていたのが功を奏し、シケインでも意のままにラインがとれたという。2番手につけるピケットのブラバムは、ややスライド気味で、シケイン出口では大きくはらみ、数周するとトップとの差は3秒と開いていた。ピケットにすれば可能な限りのドライビングをしていたが、それでも離されるいっぽう。ジャコメリが何かミスでもしないかぎり捕まえるのはまず不可能だった。」

「ジャコメリは『トップを走るのがこれほど容易なこととは信じられなかった。ハンドリングは完璧だったし、もっとペースを上げようと思えばそれも可能だった』というほどで、ピットサインでジョーンズの追い上げを知るとペースを上げ、その差を13秒とする。」


しかし、ジャコメリの179は最後まで走りきることはできませんでした。トップを快走中の32週目にエンジントラブルでリタイヤしてしまいます。

結局、ジャコメリはF1では1勝も挙げることなく引退することになります。

シャドーDN8をダブって買ってしまいました

スパークから発売されたシャドーDN8のアラン・ジョーンズモデルを間違えて2台買っちゃいました。

 同じシャドーDN8のパトレーゼモデルを予約したことは覚えていたのですが、その1か月ほど前にジョーンズモデルを予約していたことをすっかり失念していて、発売直前になって「危ない危ない」と別のショップで予約したという間抜けぶり。

 というわけで、しっかり同じ日に2台のDN8が届きました。

 前に注文したのが送料込みで6428円。あとから慌てて注文したのがやっぱり送料込みで6900円。800円の昼飯を500円に抑えるとして23日。約1か月はワンコイン昼飯ですね。


2012年5月16日水曜日

ロータス79/マリオ・アンドレッティ/1979/ミニチャンプス


 1979年のアンドレッティのイタリアGPモデル。ロータス79は有名なマシンですが、これは「1979年モデル」というところがミソですね。

 ロータス77は76年、ロータス78は77年という具合に、型番と実際に走った年がずれています。本来なら1979年は「ロータス80」でなければいけないわけです。

 もちろんチームロータスもロータス80を投入しています。ですが、これが大失敗でした。

 初めて登場したスペインGPでこそアンドレッティが3位に入賞しますが、次のベルギーGPではロータス79に戻しています。その翌戦のモナコGPに再び登場しますが、21周でリタイヤ。皮肉なことにロータス79に乗ったチームメイトのカルロス・ロイテマンは3位に入賞しています。そしてその次のレースであるフランスGPでリタイヤした時点で、ロータス80の使命は終了。アンドレッティもロータス79に戻ります。

 今回モデル化されたイタリアGPではアンドレッティは5位に入っています。この年、ロータスはコンストラクターズポイントで4位。この成績を「前年を圧勝したマシンでも4位がやっと」とみるか、「ニューモデルが失敗してあわてて旧車を使ったにもかかわらず4位に入ったのはサスガ」とみるかは微妙なところですね。

2012年5月15日火曜日

フェラーリ312T2/ジル・ビルヌーブ/1977/マテル


フェラーリ312T2のミニカーは何台か持っているのですが、基本的にはニキ・ラウダのモデル。これは1977年のカナダGPでジル・ビルヌーブがドライブしたマシンをモデル化したものです。

1977年はビルヌーブがF1にデビューした年です。成績はどうだったのか、ちょっと調べてみました。

第10戦のイギリスGPでマクラーレンからデビューしたビルヌーブは、第16戦のカナダGP、そして最終戦の日本GPに今度はフェラーリから出走しています。イギリスGPが11位、カナダGPが12位、そして日本GPは事故でリタイア。この事故で関係者と観客2名が死亡、6名が重軽傷を負いました。このレースを最後に、1987年までの10年間、日本ではF1グランプリは開かれなくなります。

本棚にあったオートスポーツ1977年12-1号にカナダGPの記事が出ていました。表紙はカナダGPの前のUSグランプリで2度目のワールドチャンピオンに輝いたラウダです。


レース結果を見ると、完走80周のところ、「ドライブシャフト破損」のため、76周でレースを終えたようです。

カナダGPのレポートの中に、ラウダとビルヌーブに関するちょっとしたエピソードが載っていました。

 金曜日の朝、ニキ・ラウダはフェラーリ・チームに対して、正式にこのレースに出場しないと通告、そのあとTVを通じて「私はフェラーリのやり方にうんざりしている。チームはこのレースに3台もエントリーするので、私のマシンはこれまでのような整備を期待できない……」と語り、レースのプロモートの金を受けとって、さっさと帰国してしまった。

この3台目のマシンに乗っていたのが、地元カナダのビルヌーブでした。



コパスカーF5A/エマーソン・フィッティパルディ/1978/Racing Models

 

 Racing ModelsのコパスカーF5Aです。

コパスカーF5Aは1978年のモデル。コパスカーは1975年にエマーソン・フィッティパルディの兄ウイルソンが作ったブラジル初のF1レーシングチームです。スポンサー名を取って、コパスカーと表記されていました。

チーム設立に当たって、1972年と74年にワールドチャンピオンを獲得した弟をドライバーに据えたのですが、ここまでは鳴かず飛ばずでした。コンスト ラクターズランキングを見ても、75年は無得点、76年は11位、77年は9位。そして迎えた1978年にこのF5Aを送り込んだわけです。

オートスポーツ1978年2-15号では見事表紙も飾っています。


 ベールを脱いだニュー・コパスカー、すなわちF5Aはロータスそっくり、さながら“黄色いロータス”というところである。

 ボディ・ワークはこれまでのイメージを一変させる。ロータス/フェラーリを追随したフル・ワイド・ボディを採用。フロント・サイド・ラジエーターのエア・フローを十分考慮し、なおかつボディ上面のエアをスムーズにリア・ウイングまで導くために両サイドにフィン形状を付けるなど、最新のデザイン・ポリシーを貫いている。

 このF5Aはこれまでよりずっと洗練され、戦闘力も向上し、E.フッティパルディがトップ・クラスに返り咲くのも夢ではなさそうである。
 オートスポーツ1978年3-15号にもF5Aの記事が載っています。アルゼンチンGPの「最新パドック情報」という記事です。


 コパスカーは昨シーズンのカナダを最後に姿を消していたが、大改造を施してアルゼンチンに現れた。ラジエーターはロータスのようにモノコックの両サイドにマウントし、その全体はFRPのポンツーンとなっているが、ウイング形状ではない。

 ウイング形状ではない、というのがいいですねえ。まだ前年に登場したロータス78の分析ができていかなったということでしょうか。


ただ『F1全史 1976-1980』にはマシンについてこう書かれています。

 F5(デイブ・ボードウィン設計)をグラウンドエフェクトカーに改良したF5A(ジャコモ・カリーカ率いるフライスタジオが設計担当)で参戦。

グラウンドエフェクトカーということは、当然両サイドがウイング構造になっているはず。どちらが正しいのか。たぶん後年に書かれたものなんでしょうね。もしくは最初はウイング構造ではなかったけれど、途中で改良されたとか。

結局、この年のコパスカーはコンストラクターズランキングで7位と、これまでよりはいい成績を上げるのですが、ドライバーズは9位どまり。残念ながらフッティパルディがトップ・クラスに返り咲くところまではいきませんでした。

今回のモデルですが、1978年のベルギーGP。この年の第6戦です。このレースでフッティパルディは0周でリタイアしているんですが、なぜそんなマシンをモデル化するのでしょうか(笑)。ちなみにリタイアした理由は、エンサインのジャッキー・イクスに後ろから追突されてリア・サスペンションを破損したためらしいです。

第11戦のドイツGPと、次のオーストラリアGPで4位に入っているのですから、そっちでモデル化した方がいいと思うのですが、こういうメーカーの事情って、門外漢なのでまったく分からないんですよねえ。

ロータス77/マリオ・アンドレッティ/1977/スパーク


スパークの「ロータス77 ブラジルGP」です。ドライバーはマリオ・アンドレッティ。6132円で購入しました。

1976年のブラジルGPはシーズン第1戦。アンドレッティは6周でリタイアしています。

リタイアで始まったロータス77ですが、さまざまな改良を加え、最終戦のF1 in Japanで優勝します。F1 in Japanで優勝したマシンは、レーヴコレクションから発売されたモデルで持っているのですが、並べてみると、別のマシンといってもいいかもしれません。


ブラジルGPとF1 in Japan、どちらもアンドレッティ・モデルですが、ナンバーが違います。どうしてだろう。

調べてみると、シーズン第1戦(ブラジルGP)でのエースドライバーは、アンドレッティではなく、ロニー・ピーターソンなんですね。ピーターソンはこの第1戦のみで、第2戦からはマーチへ移籍します。アンドレッティも第2戦、第3戦はロータスではなく、パーネリから参戦。パーネリが第3戦でF1から撤退すると、アンドレッティは次の第4戦から再びロータスに戻ります。でエースドライバーとして5番のマシンに乗るようになったと。

ピーターソンとアンドレッティは1978年に再びロータスでチームメイトになるわけですが、そのときは立場が逆転していて、そしてシーズン終盤にあの悲劇が待っています。

2012年5月14日月曜日

ヘスケス308E/ルパート・キーガン/1977年/Racing Models

昨年から「Racing Models」というブランドのモデルカーを何度か買っています。コレクション対象の1976年から80年のマシンをかなりの数、モデル化しているからです。

Racing Models

昔はミニチャンプス、最近はスパークなど、いろいろなところがこの年代のマシンをモデル化していますが、Racing Modelsの特徴は、モデル化するのがその年を代表するマシンだけではないこと。コパスカーだったりサーティーズだったりエンサインだったり。優勝してないのはもちろん、当時6位までに与えられたポイントすら獲得したことないんじゃないかと思うようなマシンがずらりと並んでいます。

ミニチャンプスやスパークは、こういうマシンはモデル化してくれません。キットになっているマシンはありますが、自分じゃ組み立てられないし。そういう意味ではかなり魅力的です。値段は正直高いのですが、他に選択肢がないのだから仕方がない。

最初に買ったのが、このヘスケス308Eでした。メーカーのサイトに直接注文したのですが、価格は本体が74ポンドで、送料は10ポンド。計84ポンドです。実際の請求金額は1万474円でした。やっぱり安くないですよね。

月曜日の朝、サイトで注文して、次の日曜日の昼に届きました。さっそく箱を開けてみました。


いきなり「注意してください」という日本語が飛び込んできました。各国語で注意書きが書かれています。裏面を見ると…


「あなたのモデルを持ち上げる心配を取ることを確かめなさい。
底を支え、表面に包装ことをからそれを取る前にモデルを置くことを確かめな」


言いたいことを理解するなら、「包装を破いて取り出すときに落とさないように気をつけてください」ということですかね。

 
箱はオレンジです。


モデルはラップで固定されていました。

正面から見て、ウィングが曲がっているのは、このラップのせいじゃないかと思うんですが(笑)。


完成度は正直「?」という気もしますが、他にないんですから、仕方がありません。いや、そんなことを言っちゃいけませんね。モデル化してくれたことを感謝しないと。

ヘスケス308E。1975年限りでF1活動を終えていたヘスケスが、1977年、1年ぶりに復帰したときのマシンです。女性のイラストがボディに描かれているのは、この年のスポンサーが雑誌のペントハウスだったから。ちなみに1978年はオリンパスがスポンサーになります。

ナンバーは「24」。となると、ドライバーはルパート・キーガンです。第12戦のオーストリアGPで7位に入っているのが最高位。前にも書いたとおり、当時の入賞は6位までなので、結局年間通じてポイントは獲得できませんでした。そんなマシンをモデル化して、どのくらいのニーズがあるんでしょうw。

『F1全史 1976-1980』を見ると、ヘスケスが参戦したのは第5戦のスペインGPから第16戦のカナダGPまでの12戦。第17戦の日本GPには参戦していません。予選落ちはないけれど、一桁順位は4回(うちキーガンが3回。最上位はキーガンの7位)。

1977年のオートスポーツをぱらぱらめくってみても、ほとんど記述はありません。たいていは予選の説明で「○位はキーガン」と書かれるくらい。いちばん文章量が多かった9-1号でも、こんな感じです。

「7列目はブラバムのH.スタックとヘスケスのR.キーガン。彼のヘスケス308Eは、フロントのラジエター配置を変え、シャシーのセッティングを変えてハンドリングがずっと改善されたという。もっとも同じような改良型だったが、チームメイトのルバック、アートルのふたりは予選を通過できなかった。」
7位に入ったオーストリアGPでさえ、レポートが掲載された10-15号ではまったく触れられていませんでした。

カラーページに写真が載っていたのは、たぶん12-1号だけでした。

キャプションはこんな感じです。

「ヘスケス308EのR.キーガンが珍しく(?)頑張って10位にはいった」

ひどすぎるよ(笑)。

マーチ761/ビットリオ・ブランビラ/1976/JOHN DAY

JOHN DAYのマーチ761を手に入れました。1976年のF1マシン。この年、マーチは4台が参戦していますが、そのうちのビットリオ・ブランビラのマシンです。

ブランビラはウェットコンディションのレースにめっぽう強かったことから、「雨の帝王」という異名を持つドライバー。この761を駆って、雨のF1 in Japanでも6周に渡りトップを走りました(結果はリタイア)。歳がばれますが、このレースは現地で観戦していて、ずいぶん興奮したのを覚えています。マーチ好きだったんですよ。判官贔屓なもので。

マーチはマシンを制作し個人ドライバーやレースチームにマシンを売るというレーシングメーカーです。1976年も5人のドライバーがこのマシンを駆って(買って?)F1に参戦しました。ちなみにそのうちの1人、ハンス・J・シュトックのスポンサーは、このミニカーを作っているJOHN DAY MODEL CARSでした。ミニカーメーカーがF1のチームを持てる、いい時代だったんですね。

ちなみに「雨の帝王」というのは、本当に彼の異名だったのかな(笑)。日本語版のウィキペディアには「雨の魔術師」という書かれていますが、英語版のWikipediaには「his nickname was "The Monza Gorilla"」としか書かれていない(日本語のウィキにも「その強面の容貌と荒々しい走りから、『モンツァゴリラ』の愛称で親しまれた」とあります)。「Particularly adept at driving in wet conditions,」と書かれていますから、雨のレースに強かったのは間違いないようですが。

Vittorio Brambilla

ブランビラのマシンはミニチャンプスの751も持っています。1975年のオーストリアGPのモデルです。

雨のため54周の予定が29周で終了となったこのレースでブランビラは生涯唯一の優勝を遂げています。で優勝が決まって「思いがけぬチェッカード・フラッグに、片手を挙げて応えた途端、コントロールを失ってスピン→クラッシュ。前部をメチャメチャにしたマシンでウイニング・ラン」をしたそうです(『F1全史1971-1975』より)。いい味出してますねえ。ちなみにレースがほぼ半分で終わったため、ブランビラに与えられた得点は通常の半分でした。

リジェJS-15/ジャック・ラフィー/1980/スパーク


スパークのリジェJS-15モデルを手に入れました。1980年、ジャック・ラフィーのドイツGPモデル。当時の表記に合わせるなら「西ドイツ」GPですね。

リジェJS11-15は、1979年に登場したリジェJS11を改良して、1980年に参戦したマシンです。この年のコンストラクターズランキングは、ウイリアムズに続く2位。ドライバーズランキングでもラフィーが4位、ピローニが5位に入っています。

西ドイツGPはラフィーが優勝したレースです。2位は2回、3位も2回ありますが、優勝はこのレースのみ。「成績悪いのにモデル化」というパターンに比べると、正しいプロセスだと思いますね。あ、でも、予選落ちしたマシンもモデル化するというRacing Modelsの取り組みも、それはそれで素晴らしいと思います(笑)

レースレポートが載っているオートスポーツ1980年10-15号を見てみます。


表紙はルノーRE23。表紙にもきちんと「西ドイツ」と表記されています。

表4はフェアレディZです。


雑誌というのは基本的に縦長のものが圧倒的なんですが、その広告を横長に作るというのは、なかなか挑戦的です。

「トップが二転三転、けっきょく最初にチェッカード・フラッグを受けたのは、J.ラフィーだった。やっと待望の一勝をあげたラフィーの幸運というよりもJ-P.ジャブイーユやA.ジョーンズにツキがなかったといえそうだ。」

──これがリード。身も蓋もないというか。

とりあえずポールポジションはアラン・ジョーンズのウイリアムズFW08。だけどレースが始まるとあっさりジャブイーユのルノーRE23に抜かれる。それがエンジン異常でジャブイーユがリタイア。前戦まで3連勝していたジョーンズの4連勝間違いなしというところで、今度はジョーンズのタイヤの空気が抜けて、ラフィーが首位へ。そのまま、優勝というレース展開だったようです。ウィリアムズの隆盛とターボ時代の到来を感じさせますね。


「ラフィーには喜びの表情はなく、シャンペン・シャワーのセレモニーも、レース後の祝賀パーティもなかった。『ここで勝ってもすこしもうれしくないんだ。この1週間というもの、パトリックのことで頭がいっぱいだった』とラフィーは寂しげに語った。」

パトリックとは、前年のチームメイトだったパトリック・デパイユのこと。レース前週、ドイツGPが行われたホッケンハイムでアルファロメオをテスト中にコースアウトして事故死しています。

振り返ってみると、1980年のコンストラクターズランキング1位のウイリアムズと2位のリジェのマシンは、どちらも前年の改良モデルです。そのあたりの考察がオートスポーツ10-1号に載っていました。

「ドイツまでの結果でもわかるように、ウイリアムズFW07BとリジェJS11/15が、かなりの速さを示している。この2車に共通していることは、いずれも’79年タイプの改良型であり、ニューモデルではないということだ。」


「FW07にしろJS11にしろ、その基本デザインがすぐれているということである。とはいえ、とてつもなく秀でたデザイン(ロータス80のように)という意味で、すぐれているのではない。それはこの2車が。現代のサーキット、タイヤ、エンジンそしてドライバーの技術に高い地点で妥協しているということだ。妥協という言葉が適切でないとすれば、バランスしているといってもいいだろう。」


「たとえば、ダウンフォースとドラッグのバランスにしても、FW07BとJS11/15は、ストレートでもじゅうぶん速く、コーナーでもけして遅くないという意味で、実に適切である。」

うーん、わかるような、わからないような(笑)。「高い地点で妥協している」ほうが、「とてつもなく秀でたデザイン」よりも上である、ということなんですかね。だとしたら、後者は何が「秀でている」のか、なんてことも気になってきます。

でも、その例に挙げられているのがロータス80ということは、このくだりは皮肉なんでしょうか。