F1ミニカー拾い集め日記(1976〜80年限定)
1976年から1980年までに登場したF1マシンの情報を、ミニカーを中心に拾い集めています。
2013年9月8日日曜日
ロータス79/マリオ・アンドレッティ/1978/スパーク
1978年の第6戦、ベルギーGPモデルです。本戦は5月21日。
このレースは、“ウイングカー”ロータス79のデビュー戦。ロータス79は第5戦のモナコGPの予選に投入されていますが、このときは78と79両方で予選を走り、ベストタイムを出したのはロータス78。本戦もロータス78で出走しました。
そして満を持して迎えたベルギーGP。オートスポーツ1978年7-15号のレースレポートはこんな文章で始まっています。
「どこからみてもマリオ・アンドレッティの完勝だった。」
モナコGPの予選では実力を発揮できなかったロータス79ですが、ベルギーGPでは最初からその力を見せつけます。
「アンドレッティは、3回行われたセッションのいずれも、2番手のドライバーを1秒以上引きはなしてベスト・タイムを出し、けっきょく1分20秒90の驚異的なタイムでポールポジションを手に入れた。」
このペースは本戦も続きます。
「まるでアンドレッティの独演会のようなものだった。序盤で独走態勢を固め、そのあとは日曜日の午後のドライブのように愉しげに走りつづけた。」
ここからロータス79の快進撃が始まります。同時に、このレースで古いロータス78を駆りながら、ベストラップを記録したロニー・ピーターソンとアンドレッティの「チーム内での戦い」もクローズアップされていくことになります。
2013年9月7日土曜日
シャドウDN8/R.ゾルジ/1977年/スパーク
シャドウDN8の初期が欲しかったので購入しました。送料込みで6428円。
スパークのDN8は、1976年モデルを1台、1977年モデルを2台持っています。今回買ったのは1977年のロングビーチGPモデルです。
ちなみにこの年のロングビーチGP、オートスポーツ1977年6-1号を見ると「アメリカ・グランプリ・ウエスト」という表記になっています。
今回モデル化されたのはゾルジのマシン。予選20位はでした。記述は「11列めにはビンダーとゾルジ。」だけです(笑)。本戦は27周でリタイア。記事では次のように触れられていました。
「その間には、ゾルジのシャドウがやはりギヤボックスを痛めて戦列を去っていた。」
「その間」というのはジョン・ワトソンのブラバムBT45がギヤボックスを痛め、コース上で修理をしたのだけど、マシンに携帯していた工具以外を使ったのがばれて、厳重注意を受けていた「その間」ということらしいです。車に積んだ工具を使いコース上でギヤボックスを修理することが現実的にあり得た、というのは、やっぱりのんびりした時代ですよねえ。
とりあえずオーストリアGPで優勝したジョーンズのDN8と並べてみます。
ロングビーチGPが4月3日の第4戦、オーストリアGPが8月14日の第12戦。この4か月の間にずいぶんとスリムになっています。
2013年9月5日木曜日
シャドウDN8/リカルド・パトレーゼ/スパーク/1977年
1977年の第17戦、日本GPモデルです。
第6戦のモナコGPでデビューしたリカルド・パトレーゼは、このレースで6位に入。この年、唯一の得点を挙げます。
オートテクニック77年12月号で、さらりと触れられていました。
「新人パトレーゼは後半のタイヤトラブルをだまし,初入賞をやってのけた.」
チームメイトのアラン・ジョーンズの前を走る写真も掲載されていました。キャプションはこんな感じです。
「パトレーゼが兄キ分のジョーンズを従える.結局ジョーンズに先を越されるが,6位に入りF1初ポイント」
ジョーンズは4位に入賞しています。
日本GPが行われたのは10月23日。パトレーゼは2週間後の11月6日に行われた「JAF鈴鹿グランプリ」にもシェブロンB42で参戦。日本GPの勢いを駆って見事、優勝をとげます。
ちなみにこのレースにはケケ・ロズベルグ、ディディエ・ピローニも参戦しています。ラルトRT1にのって参戦しているダニー・サリバンは、85年のインディーチャンピオンのダニー・サリバンなのかな。
いちおうこの年のオーストリアGPで優勝したジョーンズのマシンと並べてみますね。
2013年8月29日木曜日
アルファロメオ179/ブルーノ・ジャコメリ/1980/スパーク
昨年予約したアルファロメオ179です。ドライバーはブルーノ・ジャコメリ。
1980年のUSイーストGPモデルですね。ジャコメリがはてしなく優勝に近づいたレースです。ジャコメリ曰く「トップを走るのがこれほど容易なこととは信じられなかった」。このレースの詳しい話は、ポリスティルの回に書いているので、特に書くべきことはありません(笑)。
2013年8月28日水曜日
シャドウ DN8/トム・プライス/1976/スパーク
1976年の第12戦オランダGPモデルです。このレースでデビューしたDN8を駆って、トム・プライスは予選3位を獲得。本戦でも4位に入賞しています。
手元にあるオートスポーツ1976年11-1号にこんな記述がありました。
「シャドウのニュー・マシンDN8のデビューは、混乱のドン底にいるチームにしては、大いに買われるものだった。しかし、予選で3番手を獲得したT.プライスの強引なスタートは、モーター・レーシングの安全を唱える者──つまりは関係者全員──から、強い非難を受けるべきものであったことも事実である。まあ、それはともかくとして、DN8のデビューは、注目をあびるに値するものであった。」
どんなスタートかは記事には書かれていませんが、シーズン途中でロータスに移籍するトニー・サウスゲートが手がけたこのマシンはなかなかのポテンシャルを持っていたようです。実際、このマシンを改良したモデルで参戦した翌年のオーストリアGPで、シャドウはF1初勝利を飾ることになります。
タイレル007/J.シェクター/1976/スパーク
1976年の第4戦スペインGPモデルです。このレースでタイレルは六輪のP34を初めて実戦に投入します。ドライバーはパトリック・デバイユ。もう一人のドライバー、シェクターは前年モデル007での出走でした。
このレースでP34は予選3位。本戦でも25周でリタイアするものの3位を快走。その能力の高さを見せつけます。
次のベルギーGPからはP34の2台体制となるので、このモデルは、チームタイレルが実戦に投入した最後の007になるということですね。
2012年11月25日日曜日
ルノーRS01/ジャン・ピエール・ジャブイーユ/1977/カルツォ
1980年代に訪れるターボ時代のさきがけ、ルノーターボF1の第1戦モデルです。
1997年のオートスポーツ2-15号では「デビューは6月19日のスウェーデン・グランプリの予定」、4-1号では「デビュー戦は夏(おそらくフランス・グランプリ)ということになっている」と書かれていたデビュー戦ですが、実際にはフランスGPの翌戦である第10戦イギリスGPにずれ込みます。
ルノーとしては、地元でデビューさせたかったはずですよね。なのに、それをイギリスGPにずらしたのは、地元で走らせたら問題になるほど性能が悪かったからでしょうか。それとも余計なプレッシャーを受けたくないから、あえて1戦遅らせたのか。
この件に関しては、オートテクニック1977年9月号「イギリスGPにみるニューカマー・ルノーターボと主要F・1マシンを総チェック!!」という記事で触れられていました。
オートテクニック、この号は表紙もRS01ですね。
「テストランは,まずフランス国内で始められ,ディジョンサーキットを1分12秒8の好タイムをマークした.ちなみに7月3日のフランスGPでは,マリオ・アンドレッティのロータス78DFVが1分12秒21でポールポジションであり,トップマシンに近いポテンシャルを示したのである.」
1分12秒8というタイムはフランスGPの予選結果に当てはめてみると、4位。調子いいですよね。では、なせフランスGPでデビューしなかったのか。
「タイムは出たが,エンジントラブルが続いたからというのが実状のようである.その主なものがピストンに穴があいてしまうという類のもので,熱によってピストンが溶けてしまうわけだ.」
「ターボエンジンは,ピストン,およびエンジン自体の冷却,これにともなうインテークエアの冷却が重要になってくるのである.」
このエンジンの過熱の問題は1977年のルノーについてまわります。「TURBO CARS1977-83」を読むとこんな一文がありました。
「ターボチャージャーが発生する熱によるオーバーヒートに悩まされ、デビューイヤーの殆どのレースで白煙を噴き上げてリタイアする姿を曝したRS01は、その小柄で愛らしいボディ・フィルムのせいもあって、イギリスのプレスから“イエロー・ティーポッド”という有りがたくないニックネームを頂戴した。」
そんな過程を経てデビューしたイギリスGPの予選は21位でした。オートスポーツ9-15号より。
「ニュー・ルノー・ターボのJ.P.ジャブイーユは、ターボ・チャージャーのトラブルで木曜日はひどいタイムだったが、金曜日になってやっと調子を回復、26人中21位で予選を通過した。」
そして本戦を迎えます。
「フランスのホープ、J.P.ジャブイーユのニュー・ルノーはやはり、長つづきしなかった。12周め、ターボ・システムの故障でビット・イン。その後4周ほど走ったが、ターボの調子が悪くリタイアとなった。」
記念すべき第1戦なのに、なんだかあっさりしていますね。ここはオートテクニックに期待して77年9月号を開いてみます。
「注目のルノー・ターボもデビューしたが,まだまだ調整段階,プラクティスでもピットインを繰り返し,懸命にターボの調整に務めたが,プラクティスで21番目の成績.11列目からスタートしたレースでも,わずか16周目にターボ自体が壊れて初出場をリタイアで終えていた.」
ちなみにオートテクニックのマシン解説記事には、スポーツカーノーズではなく、ウイングノーズでデビューした理由も載っていました。
「フロントダウンフォースの調整が,スポーツカーノーズよりウイングノーズの方が簡単だからであろう.これは他のF1マシンと,まったく共通の考え方だ.」
ダウンフォースが重要になるにつれ、スポーツカーノーズは消えていくんですね。ただ、RS01に関しては次に参戦したオランダGPではスポーツカーノーズで参戦し、しかも一時は6位を走るのですから、まあ、よくわかりません。
何はともあれ、後に一世を風靡するターボF1の歴史はこうやって幕を開けたわけですね。
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