2012年11月25日日曜日

ルノーRS01/ジャン・ピエール・ジャブイーユ/1977/カルツォ


1980年代に訪れるターボ時代のさきがけ、ルノーターボF1の第1戦モデルです。

1997年のオートスポーツ2-15号では「デビューは6月19日のスウェーデン・グランプリの予定」、4-1号では「デビュー戦は夏(おそらくフランス・グランプリ)ということになっている」と書かれていたデビュー戦ですが、実際にはフランスGPの翌戦である第10戦イギリスGPにずれ込みます。 

ルノーとしては、地元でデビューさせたかったはずですよね。なのに、それをイギリスGPにずらしたのは、地元で走らせたら問題になるほど性能が悪かったからでしょうか。それとも余計なプレッシャーを受けたくないから、あえて1戦遅らせたのか。

この件に関しては、オートテクニック1977年9月号「イギリスGPにみるニューカマー・ルノーターボと主要F・1マシンを総チェック!!」という記事で触れられていました。

オートテクニック、この号は表紙もRS01ですね。


「テストランは,まずフランス国内で始められ,ディジョンサーキットを1分12秒8の好タイムをマークした.ちなみに7月3日のフランスGPでは,マリオ・アンドレッティのロータス78DFVが1分12秒21でポールポジションであり,トップマシンに近いポテンシャルを示したのである.」

1分12秒8というタイムはフランスGPの予選結果に当てはめてみると、4位。調子いいですよね。では、なせフランスGPでデビューしなかったのか。

「タイムは出たが,エンジントラブルが続いたからというのが実状のようである.その主なものがピストンに穴があいてしまうという類のもので,熱によってピストンが溶けてしまうわけだ.」

「ターボエンジンは,ピストン,およびエンジン自体の冷却,これにともなうインテークエアの冷却が重要になってくるのである.」

このエンジンの過熱の問題は1977年のルノーについてまわります。「TURBO CARS1977-83」を読むとこんな一文がありました。

「ターボチャージャーが発生する熱によるオーバーヒートに悩まされ、デビューイヤーの殆どのレースで白煙を噴き上げてリタイアする姿を曝したRS01は、その小柄で愛らしいボディ・フィルムのせいもあって、イギリスのプレスから“イエロー・ティーポッド”という有りがたくないニックネームを頂戴した。」

そんな過程を経てデビューしたイギリスGPの予選は21位でした。オートスポーツ9-15号より。


「ニュー・ルノー・ターボのJ.P.ジャブイーユは、ターボ・チャージャーのトラブルで木曜日はひどいタイムだったが、金曜日になってやっと調子を回復、26人中21位で予選を通過した。」

そして本戦を迎えます。

「フランスのホープ、J.P.ジャブイーユのニュー・ルノーはやはり、長つづきしなかった。12周め、ターボ・システムの故障でビット・イン。その後4周ほど走ったが、ターボの調子が悪くリタイアとなった。」

記念すべき第1戦なのに、なんだかあっさりしていますね。ここはオートテクニックに期待して77年9月号を開いてみます。

「注目のルノー・ターボもデビューしたが,まだまだ調整段階,プラクティスでもピットインを繰り返し,懸命にターボの調整に務めたが,プラクティスで21番目の成績.11列目からスタートしたレースでも,わずか16周目にターボ自体が壊れて初出場をリタイアで終えていた.」

ちなみにオートテクニックのマシン解説記事には、スポーツカーノーズではなく、ウイングノーズでデビューした理由も載っていました。

「フロントダウンフォースの調整が,スポーツカーノーズよりウイングノーズの方が簡単だからであろう.これは他のF1マシンと,まったく共通の考え方だ.」

ダウンフォースが重要になるにつれ、スポーツカーノーズは消えていくんですね。ただ、RS01に関しては次に参戦したオランダGPではスポーツカーノーズで参戦し、しかも一時は6位を走るのですから、まあ、よくわかりません。

何はともあれ、後に一世を風靡するターボF1の歴史はこうやって幕を開けたわけですね。

2012年11月13日火曜日

マルティニMk23/ルネ・アルヌー/1978年/Racing Models


Racing Modelsのサイトに、マルティニMk23のベルギーGPモデルもありました。

発表時のマシンと比べると、ボディの各部に施された変更点がチームの苦闘ぶりを物語っていますねえ……と思ったら、ベルギーGPは第6戦。デビュー戦だったモナコGPが第5戦ですから、デビューレースで予選落ちしたので、慌てていろいろ手を加えたのでしょうか。


以前の記事でも書きましたが、マルティニが参戦したのは、モナコGP(予選落ち)、ベルギーGP(9位)、フランスGP(14位)、ドイツGP(予選落ち)、オーストリアGP(9位)と5戦だけです。こうしてみると最もいい成績を収めたマシンをモデル化したとも言えるんでしょうが、それよりなにより、そんなマシンをよくモデル化したなと。いや、これは誉めているんですよ(笑)。


オートスポーツ1978年10-15号のオーストリアGP解説記事に。こんな文章がありました。

「そして最後尾の26位にはマルティニMK23のルネ・アルヌーがすべり込んだ。『べつに悪いところはないが、ただスピードが出ない……』という。」

悪いところはないけれどスピードが出ない(笑)。それじゃあ、手の施しようがないですねえ。でもまあ、デザイナーが「多少重いマシンになっていても、むしろ頑丈なマシンということで初挑戦には好都合」なんて呑気なことをいっているのだから、スピードが出ないのも当然という気もしますが。

ちなみにオートスポーツ1978年7-15号を読むと、ベルギーGPのレースレポートのまとめに、少しだけマルティニの話が出てきます。

「9位にはマルティニMk23のルネ・アルヌー。彼もこれまででベストの成績だ。」

2012年11月11日日曜日

タイレル009/D.ピローニ/1979/スパーク



タイレル009は1979年に投入されたマシンです。『F1全史』は「ロータス79をコピーしたかのような新型009(モーリス・フィリップ設計)は改良型ロータス79より良い出来だが、個性なし」とばっさり(笑)。

それでもエースドライバーのジャン・ピエール・ジャリエと、2ndドライバーのディディエ・ピローニは2回ずつ表彰台にのぼっています(すべて3位)。ピローニが最初に表彰台にのぼったのが、今回モデル化された第6戦ベルギーGPでした。

ベルギーGPのレースレポートが載ったオートスポーツ1979年7-15号を見てみます。

ピローニの予選結果は12位。11位はチームメイトのジャリエでした。

「6列目はタイレル009のジャン・ピエール・ジャリエとディディエ・ピローニ。比較的順調に予選を進め、ほとんどトラブル・フリーだった。」

実は名門タイレル、ここまでメイン・スポンサーがありませんでした。予選でブレーキ・フェードが発生した点について、ジャリエはこんなふうに答えています。

「『新しいスポンサーがつかなくても、ブレーキの交換くらいはやる余裕があるよ』とジャリエはジョークを飛ばす。このベルギー・グランプリ前に決まったメイン・スポンサー“キャンディ”(洗濯機や食器洗機を作る家電メーカー)のレタリングがボディに書込まれている。」

「Candy」というロゴが描かれたのはこのGPから。つまり、このレース以前の009をモデル化した場合は、ただ「Tyrell」とだけ書かれた青いマシンになるわけです。それはそれでほしい気もします。

レースはフロントローを独占したジャック・ラフィーとパトリック・デパイユのリジェJS11に、アラン・ジョーンズのウイリアムズFW07が挑み、首位を奪います。しかしマシントラブルでジョーンズはリタイア。2台のリジェは3位のシェクター(フェラーリ312T4)に10秒以上の差をつけます。

シェクターに迫るのが、ウルフWR8のジェームズ・ハントと、2台のタイレル。41周目、ピローニがハントをぬいた直後、ハントがジャリエを巻き込んでスピン。ハントはリタイア、ジャリエも順位を落とします。

首位を走っていたデパイユがリタイヤした後、シェクターがラフィーとの差を詰め、54周目に逆転。この時点でピローニは3位を走っています。ですが、後続の猛追を受けることになりました。

「観客をわかせたのは、このシェクターだけでなく、ビルヌーブの追い上げのほうがさらに歓声は大きかった。ビルヌーブはパトレーゼ──マイペースでジワジワと4番手に浮上して4番手に浮上していた──を抜き4番手に、そして3番手のピローニとの差もグングンちぢめ、残り8周というところでフェラーリがタイレルの前に出た。2番手のラフィーとは20秒もの差があったが、これも1周2秒の割でつめていく。」

ただ、ここでフェラーリのエンジンに異変が生じます。

「シケインのところでビルヌーブはフェラーリのフラット12エンジンの息つきを感じた。しかし、ストレートに出るとエンジンは再び吠えつづける。ここでビルヌーブは落ち着いて車をゆすらせ走らせ、タンク内のガソリンを1滴たりとも残さずピックアップしようとしたのだ。」

ビルヌーブは2位をあきらめ、3位を確保する作戦に変更します。ですが……。

現実は、レースは、勝負は無情であった。ビルヌーブのフェラーリは、ついにガソリンを飲みつくし、グランドスタンドから見える最終コーナー手前でストップしたのである。ビルヌーブは車を降り、なおもフェラーリを押し進めようとしたが、時すでに遅かった。」

コースでストップをしたビルヌーブを横目に、ピローニはゴール。F1で初めて表彰台にのぼります。

翌1980年、ピローニはリジェに移籍し初優勝を遂げると、1981年にはビルヌーブがエースドライバーを務めるフェラーリへ移ります。その後の2人の関係は、ご存じの通り。チーム内で2人は対立し、その関係がビルヌーブの事故死の遠因になったと言われています。

2012年11月4日日曜日

フェラーリ312T5/ジョディ・シェクター/1980/ポリスティル


マテルのフェラーリ312T5を買ったとき、自分のコレクションで312T5は初めてだと思っていたのですが、棚を眺めていたら、すでに1台持っていることに気づきました。

てっきり312T4だと思っていたポリスティルのフェラーリをよく見ると、ナンバーがチャンピオンナンバーの「1」になっています。T4の前年、1978年のチャンピオンチームは、16戦中8勝をあげたロータスですから、これはT4ではありません。フェラーリは1979年にT4でコンストラクターズチャンピオンになっていますので、これは、1980年にジョディ・シェクターが乗ったT5、ということになります。

いやいや、ちょっと待て。

この時代はシーズン序盤、ヨーロッパに上陸するまでは前年のマシンで戦うというチームが多かったのは事実です。この年のフェラーリも序盤戦はT4で参戦していたという可能性があります。ならチャンピオンナンバーのT4がある可能性がある。

そう考えて、『F1全史 1976ー1980』を開いてみました。アルゼンチンGPは第1戦です。リザルト欄を見ると、第1戦からフェラーリは312T5で臨んでいました。

勢いがついてオートスポーツ1980年3-15号も本棚から引っ張り出してみました。以下はアルゼンチンGPのレース・レポート。

「フェラーリは、ニューT5を2台走らせたが、このT5は基本的にT4で、シャーシのコックピット前後をテーパー状に半分近く削り、“ウィング”部分を広げようという意図のシャーシである」

完全なニューマシンかどうかはさておき、第1戦からT5で参戦していたことは間違いないようです。

それにしても「テーパー状」ってなんだろう?

ネットで検索すると「テーパー状」というのは「円錐状に加工した状態」とありました。人生、知らないこと、多いなあ。

マテルのT4とT5を並べてみました。左がT4、右がT5です。


「シャーシのコックピット前後をテーパー状に半分近く削」ったこと、わかりますか?

これがオートスポーツ1980年3-15号です。表紙はアルゼンチンGPを制したアラン・ジョーンズのウィリアムズFW07。1980年はウィリアムズの年でした。