2012年7月31日火曜日

ルノーRS01/ルネ・アルヌー/1979/カルツォ


1979年のアルゼンチンGPモデル(第1戦/1月21日本戦)です。ドライバーはルネ・アルヌー。

1978年に念願のルマン制覇を果たしたルノーは、いよいよF1に本腰を入れはじめます。チームも2カー体制に移行。その第1戦ですね。

ドライバーのアルヌーは前年にマルティニからF1にデビューしたもののチームは途中撤退。終盤戦をサーティーズから参加し、そしてルノーへ。なんだか順調なステップアップだなあ(笑)。

ただルノーで挑んだ初戦はなかなか厳しいものとなりました。

アルゼンチンGP予選は最下位の24位。オートスポーツ1979年3-15号を読むと、実は予選落ちしていたみたいです。

「アルヌーのほうは、3基ものターボ・エンジンをブローアップさせ、予選の走行はわずか14周というありさまで、クォリファイに失敗。『いまは1台だけに望みを託すことになってしまったが、この1台にもそれほど期待はかけられない。この暑さがつづけば、トラブルなしでレースを終えることはむずかしいだろう』とルノー・チームのマネージャー、ジャン・サージュは、強烈な路面の照り返しを避けながら話した。ミシュランのサービス・マンが計った路面温度は43℃を記録し、日陰でさえ37℃という猛暑なのだ。」

オーバーヒートに悩んでいたターボエンジンにとって、このコンディションは厳しかったようです。

予選を通過できなかったアルヌーですが、当日になって、意外な幸運に恵まれます。
本戦のウォーミングアップ走行での話です。

「R.パトレーゼのアローズとN.ピケットのブラバムが高速の右コーナーで接触。『あれは私が悪かった。ブレーキがまったく効かなくなったんだ』とパトレーゼは自分の非を認めた。アローズのフロント・サスペンション・ピックアップがめり込むというダメージで、パトレーゼはレースをあきらめることになった。」

「パトレーゼの欠場により、第1リザーブのスタックに出走のチャンスが回ってきたが、前日のクラッシュでATSが走れない状態のため、けっきょくルノーのアルヌーにチャンスが訪れた。」


2台繰り上がっての本戦出場とはかなりの幸運です。

ただ、本戦は「トラブルなしでレースを終えることはむずかしいだろう」というマネージャーの“予言”を裏付ける結果に終わります。

「R.アルヌー(ルノー)とN.ラウダ(ブラバム)が6周を終えたところで揃ってピット・イン。アルヌーのルノーは煙をもうもうと上げてのピット・インだが、ピストン・リング折損によるオイル・スモークで、ピットにストップしたままリタイア。」

予選は満足に走れず、本戦も6周で終了。アルヌーにとって前シーズンの苦闘を彷彿とさせる、1978年のスタートでした。

とはいえ、この年、アルヌーは実力を見せ始めます。表彰台にも3度あがり、ドライバーズランキングは8位。これはエースドライバーのジャブイーユ(13位)より上だったりします。

2012年7月29日日曜日

ムック「TURBO CARS」を買う


ジョーホンダの写真集ですね。基本的にコレクション対象は1980年までなので、目当てはルノーのみです。

ぱらぱら見ていて、すぐに衝撃の新事実を発見。

1977年のオートスポーツにもオートテクニックにも載っていなかったカナダGPのルノーRS01の写真が載っていたのですが、カナダGPにはスポーツカーノーズでチャレンジしていたんですね。

以前、エーダイのRS01のところで「このタイミングでスポーツカーノーズに戻すというのも考えづらいので、ここは暫定的にオランダGPモデルということにしてしまいましょう(笑)」なんて書いたのですが、その予測は間違っていました。というわけで、訂正文を追加しました。


2012年7月28日土曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/YAXON


前にミニチャンプスとエーダイのモデルを紹介したウルフWR1ですが、今度は、YAXONのモデルです。

ミニチャンプスの項を書くときに本棚から引っ張り出したオートテクニック1977年3月号のレースレポートに、WR1とは関係がないんだけど、ちょっと気になる一文がありました。


「2年前の前回GP以降,アルゼンチンは軍事政権下にあり,けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではないのだが,ラテンアメリカの人々は政治とプロスポーツを両立させ2年ぶりのF1GPレースをやってのけた.ためにいつものGPシーンには見られぬ,軽機関銃と鉄かぶとの“カーキ色”が目立っていた.」

「“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ですか。どういう時代なんだろう。

オートスポーツ1977年3-15号の巻頭グラビアを開くと、“カーキ色”が目立つ写真が載っていました。シェクターとレースクイーン(?)の後ろに兵士がずらり並んでいます。


レースレポートに、オートテクニック以上に詳しい記述がありました。見出しもずばり「戒厳令下のグランプリ・レース」。ちょっと長いですが、レースを取り巻く様子がわかるので引用します。

「まず、“舞台”の説明からはじめよう。これからして、他のいかなるグランプリとも異なっているからである。“はなし”はブエノスアイレス空港から始まった。ここは2年前と変らず、依然として仮建築のようなお粗末な建物だが、これはすぐに慣れてしまう。アルゼンチンでは、こんなことはごくあたり前のことなのだ。

 すぐに慣れるわけにはいかないのが、いたるところに見かける兵隊だ。それも、数百人という数である。どこへ行っても、軍隊を見かけることができる。彼らは完全武装し、軍服は破れてきたなく、不気味な弾帯を肩からぶら下げている。彼らをちらっと見ると,彼らもじっとわれわれを注視する。すこし離れたところにはトラックが停車していて、数10人の兵隊が武器をもって乗り込んでいる。さらにそのうしろのほうには警察のパトロール・カーが2台。それぞれ中には機関銃をもった4人の警官が同じように緊張した顔つきで構えている。すぐにでも行動に移れるように待機しているのだ。これが全部われわれのためだから驚く。

 われわれが2台のバスに分乗して空港を離れるとパトカーはサイレンを鳴らし、1台はバスの前方を走り、残りの1台は後方から護衛し、他の車両はすべて通行禁止となる。こうして、われわれは厳重に護衛されて市の中心部まで25kmのドライブをしたのだ。ロンドンからブエノスアイレスまで21時間のフライトではじゅうぶんな睡眠がとれなかったが、このバスのなかでも眠るどころではない。前と後ろにサイレンの音が鳴り響き、まるで“護送”されるような雰囲気であり、まったくグランプリ・レースとは異質の雰囲気といわねばならない。

 これほど厳重な護衛が実施されたのは、反政府ゲリラ活動に対する警戒からである。彼らはひんぱんに事件をひきおこしており、グランプリの機会に騒乱が発生する可能性があるし、そうなればわれわれは標的になるのだという。

 ホテルの中ではそれほど大げさなことはなく、大した問題はなかったが、そこを一歩出てサーキットへ行くと、またもや大変な事態である。2500人もの警官が警備に当たっていて、いたるところでバッグの中味を調べ、通行許可バッジを確認し、身分証明書の提示を求める。はじめのうちは、われわれもおもしろがっていたが、しだいにめんどうになり、最後にはひどい苦痛になってきた。その検査の時、私は大事なフィルムを1本没収されてしまったのだ。アルゼンチン軍隊の立派な任務遂行のありさまを写したのが彼らの気に入らなかったらしい。まったく常識では考えられない。

 私は、一体何のためにはるばるアルゼンチンまでやってきたのだろうか、と考え込んでしまった。」


「エビータ」の夫、ファン・ペロン大統領が死んだのが1974年7月。その後、ペロンの2人目の奥さんイザベルが世界初の女性大統領になるわけですが、1976年3月にホルヘ・ラファエル・ビデラがクーデターを起こし、政権を握ります。オートテクニックには「2年前の前回GP」、オートスポーツにも「ここは2年前と変らず」という記述があるように、前年のアルゼンチンGPは中止されているのですが、なるほど、それどころではなかったのですね。

ちなみにビデラは81年まで大統領を続けますが、1977年はまさに「汚い戦争」が始まった直後にあたります。

「汚い戦争(スペイン語: Guerra Sucia 英語: Dirty War)とは、1976年から1983年にかけてアルゼンチンのホルヘ・ラファエル・ビデラ(Jorge Rafael Videla)将軍率いる軍事政権によってアルゼンチン国民に対して行われた弾圧行為を指す言葉である。」
(ウィキペディアより)

「アルゼンチンを知るための54章」(明石書店)には、ビデラ政権の最優先課題は「治安回復と対ゲリラ戦であった」と書かれています。

「徹底的に左派系の武装勢力と戦い、掃討作戦を実施した。ゲリラは一人ひとりが一つの細胞組織として行動していたため、ゲリラと断定した者だけではなく何らかの形で関係していた者も取り締まりの対象となり、結果的に一万人以上がいまだに行方不明になっている(人権団体は三万人以上と推定している)。」

こういう文章を読むと、当時のアルゼンチンが本当に「けして“レースなどにうつつをぬかす”状況ではない」ことが、よくわかります。

「瞳は静かに」という映画は、まさに1977年のアルゼンチンが舞台。当時の恐ろしい状況が物静かに語られます。

2012年7月26日木曜日

スパークのルノーRE20を注文

スパークから発売された「ルノー RE20 #15 オーストリアGP 1980 優勝 J-P.Jabouille」、今さらですが、ネットで注文してしまいました。

すでにカルツォでは持っているので今回はいいかと思っていたのですが、発売されるとやっぱりほしくなりました(笑)。基本的にルノー好きなもので。

注文は受け付けられたのですが、いつ送られてくるかという連絡はなし。注文してから立ち寄ったショップでは普通に売ってました。うーん、いつ届くんだろう。

2012年7月24日火曜日

マーチ761/ハンス・スタック/1976/ミニチャンプス


1976年の第10戦、西ドイツGPモデルです。76年の西ドイツGPといえば、ラウダがひん死の重傷を負ったレースとして知られています(本戦は8月1日)。

オートスポーツ1976年10-1号を見てみます。予選は何位くらいなんだろうと思って調べていて、意外な発見。西ドイツGPでマーチ761、予選4位なんですね。てっきり予選落ちとのボーダーラインかと思って下の方を探していたので、ちょっと驚きました。

1位がマクラーレンM23のハント、2位がフェラーリ312T2のラウダ、3位がタイレルP34のデバイユ。そしてデパイユの横には「今シーズンF-1で実に久しぶりの活発な動きを見せたH.スタック。タイムは7分09秒1で、前3者に遜色ない」。すばらしい。やっぱりこの年のマーチ761はそれなりの戦闘力があったんですね。

ただ本戦のレポートには名前は出てきません。「F1全史」で確認してみると、1周目でリタイアしていました(笑)。

ストックにとって予選4位というのは、この年の最高位。第1戦ブラジルGPと第6戦モナコGPでは本戦で4位に入っていますので、予選4位から一気に表彰台、と行きたかったところですが、残念ながらそうはいかなかったようです。

2012年7月22日日曜日

リジェJS11/ジャック・ラフィー/1979/RBA


RBAのリジェJS11。ナンバー26なので、ジャック・ラフィーのモデルです。

1976年のF1参戦以来、ラフィーの1台体制を続けてきたリジェですが、この年から2台体制へ移行。新たにチームに加わったパトリック・デバイユが「25」と、ラフィーより若いナンバーをつけています。ただレースレポートをぱらぱら見ている限りは、デパイユがエースドライバーというわけではないみたいですね。ラフィーはずっと26番をつけていたので、そこにこだわったということなのでしょうか。

2台体制に移行しただけでなく、このシーズン、リジェは前年まで使い続けていたマトラV12に見切りをつけ、エンジンをDFVに替えて、ロータス79ライクのJS11を投入します。そしてデビュー戦のアルゼンチンGP(1月21日)でいきなりそのパフォーマンスを見せつけました。

「2台のリジェが他のチームより1周で1〜2秒速いのだ。これまで、アルゼンチンのサーキットにこれほどの“ニュー・カー”が並んだことはない。」

オートスポーツ1979年3-15号のレースレポートからも、その驚きが伝わってきますね。

「けっきょくリジェが2台でフロント・ロウを占めることとなった。リジェのこの鮮烈なパフォーマンスは、ちょうど1年前のロータスをほうふつとさせるものがある。」

レースでは予選2位のデパイユが首位に立ち、ポールポジションのラフィーはスタートを失敗して4位へ。しかし徐々に順位を上げ、11周にはデパイユを抜いて首位に立ちます。そしてそのままゴールへ。本人にとっても「楽勝」だったようです。

「優勝したラフィーは『信じられないくらい簡単に勝った。ラップをあと1秒ちぢめて走ることもできたほどだったんだ。問題があったとすれば、集中力を最後まで持続しながら凡ミスをやらないように走りつづけなければならなかったことくらいかな』と感想を述べ、これから寒い雪のフランスへ帰るという。2週間後にブラジル・グランプリを控えているのにである。そのわけを「カミさんと約束してきたんだ。もし優勝すれば、娘に会いに帰るってね」と話すラフィーは、サンデー・ドライブを終えた男が見せるようにリラックスしていた。」

リジェJS11は続くブラジルGP(2月4日本戦)でもフロント・ロウを独占。一時帰宅で鋭気を養った(?)ラフィーは2連勝を飾り、前戦では4位だったデパイユも2位と表彰台をゲットします。

3-15号の表紙はまさにその2台が走る姿です。ただデバイユが前を走っているのがご愛敬。


ただリジェのひとり勝ちはここで終了。翌戦からシェクター&ビルヌーブのフェラーリ312T4が調子を上げはじめ、シーズン後半になるといよいよチーム・ウイリアムズが頭角を現します。

2012年7月18日水曜日

ミニカーマガジンの6月号が品切れでした


久しぶりに日暮里に仕事で立ち寄ったので、帰りにイケダをのぞきました。ここに来る度に、ミニチャンプスのバイクが欲しくなるんですが、なんとか自制しています。

ミニカーマガジンをもらおうとしたら、6月号だけ抜けています。まじめな読者じゃないくせに、ないとわかると、特集はなんだったのだろうと気になったりもします。

7月号の編集後記を読むとこんな記述が……。

「◇先月号の表紙で、特集のタイトルが誤って「黒箱トミカの緊急車『懐古』録」となっておりました。正しくは「青箱トミカ〜」です。」

なるほど、トミカ、しかも特殊車両の特集とは、人気高そうですね。自分には関係ないテーマなのでほっと一安心。

ただ出版の仕事をしていたりするので、誤植は他人事ではありません。「大きな文字ほど誤植に気づかない」というのは、この業界の“常識”だったりします。気をつけよう。

2012年7月15日日曜日

ルノーA500/ー/1976/スパーク


スパークから出ている「Renault Alpine A500 test car 1976」です。「Alpine A500 1976/F1 Renault 1st Prototype laboratoire」というモデルを持っていますが、こちらは「test car」。実際にテスト走行をしたモデル、ということのようです。

オートスポーツ1976年9-1号にこのマシンの記事が載っています。




「5月13日、レジェ・ルノーは、彼らの活動に正式に1.5リッター・ターボ付きF-1エンジンの開発を加えることを発表した。“ルノー、F-1エンジンのテストを開始”と題されたプレス・レリーズの内容は、以下のようなものである──」


これからルノーがどうターボに取り組んでいるかという話が始まるのですが、ここにA500の話が載っています。プレスリリース(記事の中の言葉を借りるならプレス・レリーズ)の一文です。

「タイプA500と呼ばれるシャシーは、あらゆる種類のエンジン(インディ、F-1、F-2)搭載が可能なようにデザインされており、“ローリング・ラボラトリー”と異名をとる。トラック・テストもすでに行われており、7月までにはより一層のスピードアップがはかられる予定だ。そしてその結果で、ルノーとエルフはこの新しいF-1エンジンの市販を行なうかどうかを決定する。」
「ルノー・ゴルディーニのエンジニアは、このA500シャシーはあくまで“ラボラトリー(実験室)”であり、実戦には登場しないことを強調している。」

この段階ではあくまでもエンジンサプライヤーとしての参戦を考えていたみたいですね。記事もこのエンジンが「1977年のF-1グランプリに登場することは、ほぼ間違いない」としています。「どのチームに、どれだけの期間エンジンを供給するかについては、6月の末に発表することになっている」。誌面ではマルティニ、リジェ、そしてタイレルと予想していますが、実際は、シャシーも自ら作り、参戦することになるわけです。


2012年7月11日水曜日

フェラーリ312T5/ジル・ビルヌーブ/1980/マテル


「フェラーリ 312T5 #2 アルゼンチンGP 1980」。312T2、T3、T4と購入してきた、マテルのフェラーリ&ビルヌーブモデルです。

1979年はドライバーズランキングで2位になったビルヌーブ。速さもエースのジョディ・シェクターをしのぎ、いよいよチャンピオンかと期待されて臨んだ1980年ですが、この年のフェラーリは絶不調。シェクターはシーズン途中で引退。ビルヌーブも一度も表彰台に上がれませんでした。

そしてフェラーリはシーズン半ばで312T5をあきらめ、V6の126Cを投入します。つまりこの312T5は、70年代を席巻したフェラーリ水平対向12気筒エンジン時代の最後のマシンというわけですね。

アルゼンチンGPはこの年の第1戦(本戦は1月13日)。オートスポーツ1980年3-15号を見ると、タイヤに悩まされたようです。

「フェラーリとルノーは、このサーキットではいずれもミシュラン・タイヤのハンドリングに悩まされた。クォリファイ・タイヤを使ってさえも悪いのだ。グッドイヤーのほうはわずか3種類のタイヤしか持ち込まず、クォリファイ・タイヤでさえもレース本番に使うことすらできるという。
『改修された路面はどこまでも滑りっぱなしでね。1日めよりはましになったけど、まだよくない』とビルヌーブ。彼は最終セッションで8番目のタイムを出し、金曜日からグリッドをひとつ繰上げた。」


そしてレース本番。

「ビルヌーブ(フェラーリ312T5)もいいスタートを切ったものの第1コーナーで大きく滑って後方に転落した。しかし、後方集団に彼がそれほど長く埋もれたままでいるわけがない。」

「20周が終わった。レースはまだ予断を許さない。ラフィーは4秒のマージンを保ってトップを走り続ける。2番手はピケット。が、ピケットの背後にはビルヌーブが迫り、さらにジョーンズが激しく追い上げて差を詰めてきている。」

30周でラフィーのエンジンがブローアップ。

「リジェが脱落したので2番手はビルヌーブとなり、彼は激しくジョーンズを追いかけ、ミスを誘発させようとプレッシャーをかけつづける。しかし、この作戦はフェラーリに裏目と出た。フェラーリが壊れてしまうのだ。」


というわけで結果は36周でリタイヤ。でも第1戦のレポートを読む限り、このシーズンの惨状は予想できませんね。





2012年7月7日土曜日

マクラーレンM23/ジル・ビルヌーブ/1977/ミニチャンプス


ミニチャンプスのマクラーレンM23。コックピットまわりが取り外しできます。

ビルヌーブのF1デビュー戦モデルですね。1977年の第10戦イギリスGP。本戦は7月16日に行われました。

オートスポーツ1977年9-15号のレースレポートを見ると、見出しに「新人ビルヌーブが“ベテラン”を食う!」と書かれていました。

「5列めはハントのスペア・カーのマクラーレンM23にのった新人、G.ビルヌーブがはいって大センセーションをまきおこした。このプラクティスの好成績で、彼のもとにはさらにふたつのF-1レースから出場の招請がきたほどだ。ビルヌーブのM23はレギュラー・カーとはまったくちがったセットになっているのだが、『彼のフィード・バックはすばらしい。プラクティスのあとで。ギヤボックスにわずかの振動があるというので分解してしらべたところ、ベアリングがひどく摩耗していた……』とチームのメカニックはビルヌーブの落ち着いたドライブに驚いている。」

並の新人ではないことを強調した書き方ですね。

ただ本戦は予選ほどうまくはいかなかったようです。

「10周めにはビルヌーブのマクラーレンM23もトラブルに見舞われた。彼はチームメイトのJ.マスと7位争いを演じていたのだが、突然、水温計が上がりはじめたのでおどろいてピットに飛び込む。よく調べてみるとなんとメーターの故障とわかり、すぐ再スタートをしたがこれで不運にも2周をロスしてしまった。これがなければ、デビュー戦で入賞という快挙を達成したところだった(彼はけっきょく、トップから2周おくれの11位でレースをおえたが、名誉ある“マン・オブ・ザ・ミーティング”賞を受けた)」

フィードバック能力に優れた新人でも、さすがにメーターの故障には気づかなかったわけですね。まあ当然と言えば当然か。

ちなみにエースドライバーのハントは、マクラーレンM26でポールポジションを獲得。レースでも優勝しています。


2012年7月5日木曜日

タイレル008/パトリック・デバイユ/1978/ポリスティル


ポリスティルのタイレル008です。

オートスポーツ1978年1-1号でカラー写真を掲載し、「フル・レポートは1/15号に掲載します。お楽しみにお待ち下さい。」と引っ張ったタイレル008ですが、それだけもったいつけただけあって、1-15号は、183ページから8ページ(+折り込み)にわたる、「大特集 “タイレル”とニュー“008”をあばく!」。自ら「大特集」とうたうだけあり、ニューモデル、デザイナー、ドライバー、スポンサー、そして6輪車に対するケン・タイレルの見解と、さまざまな角度からタイレルを分析しています。

記事の冒頭、「Part1 タイレル008の設計主眼」に008に関する解説がありました。

最初の見出しは「簡潔、容易に修理ができる!」です。「出る前に負けること考える馬鹿いるかよ!」というアントニオ猪木の言葉を思い出しました(笑)。でも、きっと大切なんですよね、こういう姿勢。

本文はこう始まります。

「モーリス・フィリップの設計になる新しいエルフ・タイレル008の大きな特徴は、ボディ内に電子計測システムが積み込まれていることで、これを使ってグランプリの公式予選のとき、実走行のデータを集めることができるという点だ。」

うーん、地味だなあ(笑)。

ちなみに「容易に修理ができる」という見出しは、デザイナーであるフィリップの発言から引用しています。

「現在ではグランプリ・レースは年間17レースがカレンダーに組み込まれている。私はこのハード・スケジュールをこなすのにもっとも適したマシンを設計することを心がけた。008は製作も容易で、本工場から遠くはなれたところでも容易に修理が可能なマシンとなっている。」

ちなみにフィリップの6輪に対する意見は以下の通り。

「6輪は特殊な車であり、特別なものなので、ほかのチームの車と直接に比較することはできない。私の考えでは、レースは出来る限り他のマシンと同じような構造のマシンでやるべきだ。」

「出来る限り他のマシンと同じような構造」って、やっぱり地味ですね(笑)。

ただこの保守的な路線はある程度成功を収めて、コンストラクターズは4位。前年の5位からワンランクアップしています。デバイユはドライバーズランキングでも5位でした。

2012年7月3日火曜日

マーチ761B/アレックス・リベイロ/1977/ミニチャンプス


マーチの型番は、基本的に「年号」+「カテゴリー」。なので761は「1976年」+「F1」ということになります。ただ、1977年は、型番は一年前の761のまま、巻末に「B」がついているだけだったりします。やる気ないなあ(笑)

1977年、リベイロは一度も入賞していません。順位は8位が最高位。第11戦ドイツGPと第16戦カナダGPです。

この年のカナダGPは日本GP直前だったため、当時、雑誌ではあまりスペースを割かれていませんでした。ただでさえページ数が少ないのに入賞もしていないマシンを扱っている可能性は低いに違いない。そう考えてドイツGPのほうを調べてみました。

まずはオートスポーツ1977年10-1号。レースレポート本文では、予選結果のところで「10列目はV,シュパン(サーティーズTS19)、A.リベイロ(マーチ761)。」と結果のみ。本戦はまったく触れられていません。

ただ写真が1枚載っていました。キャプションは次の通り。
「このところ冴えないマーチ。ロビン・ハード御大も見えたが、リベイロがやっと8位。」

冷たいなあ(笑)。

オートテクニック1977年9月号では、やっぱり予選結果で触れられていますが、オートスポーツに比べると少し長めです。

「18位はイアン・シェクターのマーチでバーン・シュパンのサーティースを従え,その隣が南ア以来やっとクォリファイ通過のアレックス・リベイロ.」

ドイツGPは第11戦、南アフリカGPは第3戦ですから7戦連続予選落ちだったわけですね。

「やっとクォリファイ通過」「やっと8位」と、両誌に「やっと」が使われているところに、苦戦ぶりがしのばれます。

これはリベイロだけの問題ではなく、チーム全体の問題でした。前年、19ポイントをあげコンストラクターズランキングで7位に入ったマーチですが、77年はポイントなし。そしてこのシーズンを最後にマーチはF1から撤退します。

2012年7月2日月曜日

オートスポーツ1977年3-15号を手に入れました



先日のぞいた古本屋さんで、オートスポーツ1977年3-15号を手に入れました。1977年のオートスポーツのうち、唯一持っていなかった号です。

巻頭グラビアはアルゼンチンGP。その写真とレースレポートにちょっと気になる描写がありました。F1とはまったく関係ない話ですが、オートテクニックの1977年3月号を読んだときにも「そうだったのか」と思った記憶があります。時間があるときにでも、時代背景をちょっと調べてみるかな。

あと、表4がいい感じだったので、それもアップしておきます(笑)


当時の軽はコンパクトだなあ。