2012年6月28日木曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/エーダイ




エーダイのF1シリーズです。デカールが剥がれ始めています(笑)

オートスポーツ1977年6-15日号の連載「F-1マシン・ストーリー」の第六回でウルフWR1が取り上げられていました。筆者は望月修氏。個人的に興味深かったのはノーズのくだりです。

「76年も終わりに近づいた11日9日、ロンドンのロイヤル・ランカスター・ホテルで発表された初代モデルは、フロントウイングとスポーツカーノーズを組合わせた点からも、ボディ・サイドの大きな曲面など、308シリーズとの共通性を感じさせる。」

「308 シリーズとの共通性…」というくだりは、WR1をデザインしたのが、ヘスケス308シリーズで実績を上げたデザイナー、ハーベイ・ポストレスウェイトだっ たからです。ヘスケス308、そしてそれを改良したウイリアムズFW05は、スポーツカーノーズの前にウイングをつけるという形状していました。発表時の WR1も同じスタイルを取っていました。

オートスポーツ1977年1-15号の表紙がまさに発表時のWR1です。「フロントウイングとスポーツカーノーズを組合わせ」ているのがわかります。


「延べ11時間におよぶ風洞実験」「そして、その数倍におよぶ時間を費やして、コンピューターによるデータ分析が行われた」

「ところが、シェイクダウン・テストでは、空気抵抗、ダウンフォースの両面で満足な結果が得られなかった。ノーズ部分の整形に関してはかなり気を配った積りのはず、実走行テストでは見事に期待を裏切られてしまった。フロントのダウンフォースが少なく、そのためアンダーステアに悩まされ、その対策にフロント・ ウィングの仰角を増すと、今度はスポーツカー・ノーズとの干渉で著しく空気抵抗を増してしまうのである。」

「タイレル007風のスポーツカー・ノーズはまったく無用の長物どころか、かえって有害であるとの結果になった。」

結局、WR1はスポーツカーノーズを取り去り、ウイングノーズでデビュー戦を迎えます。そして初レースで優勝を飾ります。

個 人的にはスポーツカーノーズのF1マシンが大好きなのですが、残念ながら「彼ら」はこのあたりでその役割を終えることになります。スポーツカーノーズの F1が最後に優勝したのは1976年イタリアGPのマーチ761(この話はミニチャンプスのマーチ761の項にも書きました)。1977年にはタイレル P34、サーティーズTS19、マーチ761B、ルノーRS01(たぶんオランダGPのみ)、コジマ009とかろうじて残っていましたが、1978年の ニューマシンにスポーツカーノーズのF1マシンはありませんでした。

2012年6月26日火曜日

ルノーA500/ー/1976/スパーク


1976年、ルノーが77年のレース計画を発表したときに登場したF1のプロトタイプです。スパークのミニカーで、台座には「Alpine A500 1976/F1 Renault 1st Prototype laboratoire」とあります。A500というのは、ルノーが5月にF1計画を発表したとき、シャシーについていた名前ですね。

オートスポーツ1977年2-15号にこのモデルの写真と、「ルノーの77年計画 ターボチャージャーを多用、F-1にもなぐり込み」という記事がありました。


記事の本文には「1977年の最大の目標はル・マン」とあるのですが、リードにはF1のことしか書いてありません。


「ルノーが開発を急いでいた“ターボF-1”が、ついにF-1シーズンに登場することになった。1900年代のはじめに一時、ルイ/マルセルのルノー兄弟が活躍したことがあるが、本格的なグランプリ参戦ははじめて。1.5ℓ+ターボがどんな働きを見せるか楽しみではある。」

本文には「デビューは6月19日のスウェーデン・グランプリの予定。」と書いてあります。ですが、4-1号を見ると「デビュー戦は夏(おそらくフランス・グランプリ)ということになっている。」と変わっています。

「ルノーは1906年に行われた世界最初のグランプリ・レースに優勝をとげ、世界のグランプリ・レースの歴史に最初の1ページをしるしたが、それから数えて70年ぶりのグランプリ復帰ということになる。」

実際にはルノーのひさしぶりのF1参戦は、さらに遅れて、フランスGP(7月3日)の次、7月16日のイギリスGPから、ということになりました。

それにしても、「1900年代のはじめ」とか「70年ぶりの」とか、記事に書かれているタイムスケールがかなり大きめです。それを考えると、確かに30日くらいの違いは誤差みたいなものですね。

2012年6月24日日曜日

スパークの「タイレル008」を買っちゃいました


RBAのタイレル008の話を書いていたら、なんだか勢いがついて、スパークのタイレル008モナコGPモデルを買っちゃいました。

このブログを始めたのは、今あるモデルを整理することで無駄な買い物を抑えたいという目的もあったのですが、これじゃあ、逆効果ですね(笑)。

2012年6月22日金曜日

フェラーリ312T3/ジル・ビルヌーブ/1978/マテル


 以前、マテルからビルヌーブが乗っていたフェラーリがまとめて発売されたのですが、これもその1台ですね。

1978年のカナダGPでジル・ビルヌーブがドライブしたモデルです。カナダGPはこの年の最終戦。ビルヌーブはここでF1初優勝を遂げます。

レースはポールポジションからスタートした、ロータス79のJ.P.ジャリエが独走。2位に30秒以上の差をつけますが、49周でリタイアしてしまいます。代わりにトップに立ったビルヌーブが70周を完走し、そのままチェッカフラッグを受けるという展開でした。

オートスポーツの1978年12-15号にカナダGPのレポートより。

「地元カナダでグランプリの初優勝をとげたビルヌーブは『思ったよりずっと楽な勝利だった』と語っており、これで自信をつけ、来シーズンは大きく飛躍することが考えられる。」


2位に入ったのはウルフWR6のジョディ・シェクター。ビルヌーブはカナダ人ですし、ウルフはカナダのチーム。このGPはカナダの人たちにとってたまらないレースだったでしょうね。

ちなみにビルヌーブとシェクターはちょっとした因縁(?)が。

「このレースで2位になったシェクターは、来シーズンはNo.1ドライバーとしてフェラーリにはいることになっており、このふたりにとってはカナダ・グランプリの順位は皮肉な結果だった」

そしてフェラーリは、翌79年、ドライバーズランキングの1位、2位を独占することになります。

12-15号の表紙はマクラーレンM28でした。



拡大してもらえばわかるかもしれませんが、見出しにある「F-1の若手4人組がなぐり込み」の4人組とは「ジャコメリ、パトレーゼ、ピローニ、アルヌー」。この段階ではF2のチャンピオンだったブルーノ・ジャコメリが1番手だったんですね。F1では、ジャコメリだけが優勝していないのですが。

加えるならこの78年、ネルソン・ピケットとケケ・ロズベルグという2人の世界チャンピオンがF1にデビューしています。世代交代前夜ですね。

2012年6月19日火曜日

タイレル008/パトリック・デバイユ/1978/RBA



タイレル008は、タイレルが6輪車の次に投入したマシンです。

このミニカーのブランドは「RBA」。ネットを検索すると、海外の分冊百科についてきた付録とあります。そうなんですか。うちにも何台かありますが、どれもネットオークションで手に入れたので、そんな氏素性は気にもしていませんでした。

1976年に初登場し、センセーショナルを巻き起こしたタイレルの6輪プロジェクトですが、翌77年には失速。あっさり6輪を断念したタイレルが、78年に投入したのが008でした。

デザインしたのはモーリス・フィリップ。ロータスにいたデザイナーです。

オートスポーツ1978年1-1号の紹介記事には、ロータス時代、「彼の製図板で描かれたレーシングカーのものがたりは、優に1冊の本になるほどだ」と書かれています。その中にはロータス49や72も含まれます。

「どれがチャップマンの手になり、どれがフィリップのものかははっきりしていないが、フィリップのデザインになるもののほうが多いことは間違いのないところだ。」


71年にロータスを離れ、パーネリと契約。その後、フリーとなっていたところに、ケン・タイレルに声をかけられたようです。

記事に載っていたフリー時代のエピソードがいい感じでした。

1976年、フィリップはブランズハッチでハンドリングの悪いコパスカーと格闘しているフィッティパルディを見て「いったいどんなぐあいなのだい……」と声をかけます。

「けっきょく。彼はコパスカーのシャシー・コンサルタントになることとなり、シャシー、サスペンション、冷却系、オイル系などについて助言をするこ ととなった。彼のおかげで、コパスカーは予選を通過するようになり、けして速くはないが、それでも非常におそいという状態から脱出することとなった。」

「けして速くはないが、それでも非常におそいという状態から脱出する」…誉めてないなあ(笑)。

1-1号は表紙もタイレル008。さらに2ページのカラーグラビアも掲載されています。



「ウワサのニューF-1“タイレル008”がようやくイギリスでベールを脱いだ。この日を待ち構えていた内外のモータースポーツ記者は、肌寒い秋雨の降る日であったにもかかわらず、発表会の行われたクランドン・パークにつめかけ、カメラのシャッターを押しまくる。もちろん、本誌特約員のJ.ハッチソン氏もこの008を撮り終えるや、500ccのオートバイに打ちまたがりカラー現像所に飛び込む。そして現像ができるとわがAUTO SPORTに送る速達便をかかえて郵便局に走り込んだのであった。」

これでグラビア記事の半分は終了(笑)。詳細については「フル・レポートは1/15号に掲載します。お楽しみにお待ち下さい。」。引っ張るなあ。

とりあえず008の特徴については、こんなふうに説明されていました。

「タイレル008はM.フィリップスが設計した野心作であり、正統派かつ現在のポイントを押さえた完成度の高い、いかにも即戦力の高そうなマシンである。」

「正統派」「現在のポイントを押さえた」マシンなのに「野心作」ですか。ただ「即戦力の高」いマシンであることは間違えありませんでした。

第1戦のアルゼンチンGPが3位。第3戦南アフリカGPで2位、第4戦のロングビーチGPは3位で、第5戦モナコGPでついに優勝。こうして振り返ると驚異のスタートダッシュです。ただ第6戦以降で表彰台に上がったのは第12戦のオーストリアGP(2位)のみでした。第6戦ベルギーGPから登場した、本物の「野心作」、ロータス79の前に影が薄くなった、という見方はひねくれすぎですかね。

2012年6月14日木曜日

生沢徹の「GRD 74S Fuji GC 1974」が届きました。



GRDについては、このページを読むとどんなマシンかがよくわかります。

見本市で展示されたときにはSchickロゴの76年モデルも展示されていたみたいですが、そっちは発売されないんですかね。

と思ったら、きちんとEBBROのホームページに「GRD S74 1976」のページができていますね。

今回手に入れたモデルはアマゾンは売り切れですが、ネットを見るとまだ買えるショップもあるようですから、予約しないでも大丈夫かな。

2012年6月12日火曜日

フェラーリ312T4/ジル・ビルヌーブ/1979/マテル


マテルのビルヌーブ・シリーズのうちの1つ、1979年のフェラーリ312T4です。5481円。ネット通販で買ったので、プラス送料ですね。

YAXON版312T4の ところでも書きましたが、1979年、この年のフェラーリはコンストラクターズランキング1位。ジョディ・シェクターとビルヌーブはドライバーズランキン グで1位と2位を独占します。312T4は、そのデザインから「醜いアヒルの子」と言われていたそうですが、個人的には嫌いなマシンではありません。

今回のモデルになったマシンは1979年の南アフリカGP。312T4が実戦に投入された最初のレースです。ここでビルヌーブは、エースドライバーのシェクターを2位に抑え、優勝しています。

レース自体はかなり盛り上がったようです。予選はターボエンジンのルノーが初ポールポジション。シェクターが2位でビルヌーブは3位です。2週目にフェラーリ勢がトップを独占したところで土砂降りとなりレースが中断します。

再スタートの時、シェクターがスリックタイヤ、ビルヌーブはウエットタイヤを選択。ビルヌーブがトップに立ちますが、すぐに雨は上がり、コースが乾いてい きます。ビルヌーブがタイヤ交換にピットインしたところで、シェクターが1位に。タイヤを交換したビルヌーブがシェクターを追う立場になります。

以下はオートスポーツ1979年5-1号より。

「30周めの時点で、2台の“フライング・フェラーリ”は3番手以下に1分の差をつけての快走である。しかし、この2台の争いはシリアスで緊張した ものだった。ビルヌーブは一周ごとにトップのシェクターの背後にジリジリと迫り、シェクターのほうは、序盤でタイヤを激しく使ったため、そのツケが回って きていたのだ。」

50周め、ホイールをロックさせたシェクターがピットイン。ビルヌーブがトップに立ちます。

「コースに戻ったシェクターは、フィニッシュするまでそれは激しいドライビングでビルヌーブを追い上げる。タイヤをいたわりながら走るビルヌーブと の差が1周ごとに縮まり、観客は周回ごとに興奮の度を高めていった。しかし、ビルヌーブとすれば、これは計算された走行だったのだ。」

そしてビルヌーブはシェクターに4秒の差をつけて首位でチェッカーを受けます。

レポートは以下のようにまとめられています。

「フェラーリ・チームにとって、ニュー・マシンでの改心の勝利であったといえよう。ビルヌーブのトラブルといえば、フィニッシュした後、車から降りるときに足首をひねったことぐらいだった。この時、ビルヌーブはいった『いや、レースって危険だね』と。」

ビルヌーブの312T4はこの号の表紙も飾っています。



2012年6月10日日曜日

マーチ761/ロニー・ピーターソン/1976/ミニチャンプス



たぶんあまり気にする人はいないと思いますが、このマーチ761は、今のところ、F1GPで優勝した最後のスポーツカーノーズマシンです。レースは第13戦のイタリアGP。ちなみにその前にスポーツカーノーズのマシンが優勝したのは第7戦のスウェーデンGP。マシンは6輪車、タイレルP34でした。

オートスポーツ1976年11-1号のレース速報より。

「決勝レースの火蓋が切って落とされた。予選10番手のピーターソンが猛烈な勢いでダッシュし、3周目にトップに立つとグンとペースを早め、2番手以降を引き離していく。」

「レースはけっきょくR.ピーターソンの完ぺきな勝利で幕を閉じた。昨シーズンいらい不振をかこっていたピーターソンにとっては、74年イタリア・グランプリ以降久しぶりの勝利の美酒を飲みほすことになった。」


ロニー・ピーターソンは1970年にマーチでF1デビュー、1973年にロータスへ移籍します。73年は4勝、74年は3勝。でも「不振をかこっていた」75年はモナコGPの4位が最高でした。

76年は、第1戦のブラジルGPこそロータスで出走しますが、ロータス77の出来の悪さに愛想を尽かし、古巣マーチへ復帰していました(そのあたりの話はスパークのロータス77のところでも触れています)。そして、このイタリアGPで2年ぶりの勝利を手にした、というわけですね。

2012年6月8日金曜日

コジマ・エンジニアリング

京商からコジマ・エンジニアリングの「コジマ009」が発売されるみたいですね。

これは素直にうれしい。いちおういつものネットショップで予約しました。「KE007」もはやく出ないかな。あと009のウイングノーズバージョンとか。

さらに京商は当時のF2も出すらしいです。基本的にはF2はコレクションの対象外なのですが、出るのが「NOVA 532P」となると、これはスルーできません(笑)。

星野一義モデル2タイプと中島悟モデルが1タイプで計3種類出るみたいですが、「全部集める」という根性の入ったコレクターではないので、買うのは1台。この中から1台選ぶなら、星野一義がヨーロッパF2へ挑戦したときのモデルしかないでしょう。というわけで、こっちも予約しました。

「予約しました」と記録していないと、またダブりで買っちゃう危険がありますからね。

2012年6月5日火曜日

メルツァリオ A1/アルツーロ・メルツァリオ/1978/Racing Models


 のぞいちゃダメだと思いながら、久しぶりに見てみたRacing Modelsのサイト。そこには「The Merzario Ford A1」という文字がありました。

メルツァリオ!

これは買わざるをえません。

金額は日本円換算で1万1803円でした。正直この金額は厳しい。厳しいけれど、この先、メルツァリオがモデル化されることは、まずあり得ないと思うので仕方がありません。

前年はマーチ761Bで参戦していたアルツーロ・メルツァリオが、マーチを改良して作り上げたマシンです。戦績は予選通過が8戦、予選落ちが8戦。いや、頑張ったと思います。

サイトの紹介文を見て笑いました。

The Merzario Ford A1 as entered in the 1978 Monaco Grand Prix by Arturo Merzario. Arturo did not qualify for the race.

「Arturo did not qualify for the race.」(笑)。予選を通過したマシンをモデル化すればいいのにと思ったりもするのですが、なにか事情があるのでしょうか。

1978年のオートスポーツをぱらぱらとめくってみます。

3-15号の表紙に「メルツァリオA1」という文字が載っていました。ただ、独立した記事は見あたらず。「最新パドック情報」というページで、その他のチームと一緒に紹介されていました。

「★メルツァリオ:このチームは、アルゼンチンのガレージで初めてA1を発表した。要するにスタンダード・キット・マシンであるが、最初のデザインよりか なり全高が高くなっている。しかし、メルツァリオが昨シーズン乗ったマーチより悪いということはないし、他の人間が作ったマシンよりはるかにメルツァリオ は乗りやすそうであった。」


なんだか、誉めてるんだか、けなしてるんだか、よくわからない文ですね。「スタンダード・キット・マシン」という単語も初めて知りました。そういえば、同じ号に載っていたマルティニMk23の紹介記事には「コスワースDFV、ヒューランドFGAギヤボックス、グッドイヤー・タイヤを使用したスタンダード・F-1キット」という一文もありました。こういうマシンが成立したから、70年代のF1は楽しかったんでしょうね。


2012年6月3日日曜日

ウルフWR1/ジョディ・シェクター/1977/ミニチャンプス


アルゼンチンGPのウィナーです。チーム・ウルフがコンストラクターとしてF1に挑んだ初めてのレース。『F1全史1976-1980』によると「緒戦で優勝した例としては過去にメルセデスベンツ('54年)があるのみだ」そうです。

オーナーはカナダの石油王ウォルター・ウルフ。1976年に資金難に苦しむ「フランク・ウィリアムズ・レーシングカーズ」に共同オーナーという形で参加。チームの実権を握り、翌年、チーム名を「ウォルター・ウルフ・レーシング」と変更してF1に参戦します。

デザイナーは前年のウイリアムズFW05をデザインしたポストレスウェイト。ウイリアムズFW06のときに紹介しましたが、クリス・エモンに「ヤツの頭は雲の上なんだ」と非難されたポストレスウェイトです(笑)。

前年のマシンはエモンいわく「ひどいマシンだ。いや本当にひどい」そうですが、翌年のWR1はいきなり第1戦目で優勝を遂げます。

レース本戦は1月9日に開催されました。2012年は3月18日ですから、昔のF1関係者はずいぶん早くから働いていたんですね。

「シェクターのウルフがデビューを飾る! 荒れ模様の開幕戦,77年は群雄割拠か」

オートテクニック1977年3月号のレースレポートのタイトルです。

「いきなりダッシュしたブラバム加入のジョン・ワトソン,彼を抜き去ったチャンピオンのジェイムズ・ハント,そして終盤先頭に出たカルロス・パーチェ,いずれも相次ぐ交代劇のすえシェクターに勝ちを譲った.53周のこのレース,ウイナーのシェクターは48周から6周しか1位を走らなかった.」

そんなレースだけにジョディ・シェクターにとっても予想外の勝利だった様子。

「“もしレース前に,キミが優勝候補の最右翼だよと言われたとしても,私はとっても信ずる気はなかったし,まったくこんなことになろうとはこれっぽちも考えていなかった”──ジョディ・シェクターのウルフWR1初優勝の弁である.」

実際、緒戦の勝利は「ラッキーだった」という声も多かったようです。しかし77年のコンストラクターズランキングは4位、ドライバーズランキングは2位。6戦のモナコGP、16戦のカナダGPでも優勝とシーズン通して好成績を挙げます。

ちなみにチームから離脱したフランク・ウィリアムズは、新たに「ウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング」を立ち上げマーチ761でF1に挑みますが、この年のポイントはゼロ。テールエンダー脱出は、FW06で挑む1978年シーズンまで持ち越されます。



2012年6月1日金曜日

ウイリアムズFW06/アラン・ジョーンズ/1978/ミニチャンプス


「好きなF1マシンを1台だけ挙げろ」といわれたら、個人的にはこのマシンを選ぶかもしれません。ロータス78の成功でみんながグランドエフェクトカーの方向へ進んだ1978年に登場したくさび形のF1マシン。根がひねくれ者なもので。

テールエンダーだったチーム・ウイリアムズがオイルマネーを得て送り込んだニューマシンは、登場したときから好意的に迎えられます。オートスポーツ1978年3-1号の巻頭グラビアより。

「これまでのウィリアムズのマシンの中で最高のデキと思われるFW06で、まったくのブランド・ニュー・マシンである。マシンの特徴は、軽く小さく、シンプルであることで、コンポーネンツの配置もよく考えられている。ドライバーのA.ジョーンズは、今後トライすることは多いが、きっとうまくいくと大張り切りである。」
この号には3ページの解説記事も載っていました。記事はこう始まります。

「フランク・ウイリアムズは“アスベスト”だ。イギリスのレース界では、彼はどんな火焔にあたっても燃え出すことのない・ファイア・プルーフ(不燃性)のスーパーマンと言われている。これまで何度となく挫折し、打ちのめされたが、その度に見事に立ち上がって、またレースに挑む不死身のスーパーマンなのだ。」

今だったら「アスベスト」は褒め言葉に使われませんよね(笑)。

記事では、スポンサーにサウジアラビア航空がついたこと、ニューマシンをデザインした「ことし31歳」というパトリック・ヘッドの人となり、そして「第一印象は非常にシンプルで、実用的なマシンのようだ。そして非常に軽そうに見える」ニューマシンの技術解説が語られます。記事のまとめで筆者はこう書いています。

「F・1グランプリ・サーカスには、スーパー・チーム、すぐれたコンストラクター、そしてそれらより1ランク下の小チーム、さらにプライベート・エントラントがいるわけだが、新しいFW06の完成で、ウイリアムズはいわゆるプライベート・エントラントから小チームへ昇格したことになる。」

実際には、ここからわずか3年で、筆者が言うところの「スーパー・チーム」へと飛躍していくわけです。90年代の、全盛期のウイリアムズしか知らない人にとっては、70年代の様子は想像すらできないかもしれません。でも、本当にここまでは「その他大勢」チームだったんですよ(笑)。



FW06以前のウイリアムズのだめっぷりがわかる一例を1つ。オートスポーツ1976年11-1号オーストリアGPのレポートから。ジャッキー・イクスが離脱した後、ウイリアムズのドライバーシートに収まったクリス・エイモンの意見です。

「ところでエモンだが、エンサインを飛び出した後、イクスと入れ替わるようにウイリアムズ・チームでウイリアムズFW05のテストを行った。そして マシンについて次のように述べている。『ひどいマシンだ。いや本当にひどい。ポストレスウェイトにどこが悪いか伝えようとするが、彼は聞く耳を持っていな いようだ。ヤツの頭は雲の上なんだ』。」

すごいコメントですよね。「ひどいマシンだ。いや本当にひどい」って(笑)。